少し遅くなって帰宅すると、テーブルの上にノートと書き置きがあった。
「一つ かいたよ みてね」
ピンクのノートは、以前娘と交換日記をしていたノートだった。
久しぶりに、娘は私宛に書いてくれたようだ。
ノートに記された娘の今日の一日を読みながら、一日の疲れが溶けていくのを感じる。
やはり父親にとっての娘というのは、特別な存在なのだと、改めて思う。
私も、今日一日を思い出しながら、娘宛の日記としてノートに記す。
漢字をどこまで使うか迷いながら、せっせと書いた。
明日、読んでくれるだろうか。
私も書き置きをしておく。
「おとうさんもかいたよ みてね」
=
娘との間に、距離を感じ始めたのは、いつごろだろう。
お年頃を迎えた、思春期のはじまり、自立しはじめた、どの表現を使ってもいいのだが、それは必ずやってくるものだ。
親に出来ることといえば、一人の人間として尊重し、見守ることだけなのだろうか。
親の庇護から離れ、自分というものを確立しはじめたことは喜ばしいことなのだろうけれど、やはり寂しさというのは多分にある。
戻れない時間というのは、美化され、失われたと感じてしまうものだ。
そんなことを感じていた中の、思いがけない娘からの日記に、戸惑いを覚えた。
しばらくの間、
もう、こっちこないで!
おとうさん、いや!
あっちいって!
などど言われていたような気がするが、それと日記のギャップに戸惑う。
なぜだろう、とふと考えていたが、「アイスクリームぼとん事件」が思い浮かんだ。
些細なことをきっかけに、娘のこころのやわらかな部分に触れたような出来事だった。
けれど、あれは2,3週間前のことだった。
=
残暑の陽射しに照らされて、溶けていくアイスクリームの色を思い出す。
そうか、コミュニケーションには、時間がかかるのだ。
人のこころというのは、頭で考えているのと違う時間軸が流れているのかもしれない。
相手に何かを伝えようとしても、すぐには伝わらない。
相手のリアクションを期待してするコミュニケーションが、ことごとく裏切られるのは、そのためだ。
コミュニケーションの効用は、遅れてやってくる。
そう、忘れた頃に、ひょっこりと。
それならば。
相手からの反応を求めて、何かを伝えることは、不毛なことかもしれない。
相手がどう取ろうとも、伝えること、それ自体に喜びを見出せるかどうか。
伝えることの、喜び。
それに比べれば、相手の反応は、いわばオマケのようなものだ。
そのオマケに目を奪われて、すぐそこに咲く花を、見落とさないように。
そこに、あるのだ。
花も咲くまでには時間がかかる。