大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

目にはさやかに見えねども。

たとえば、以前にとても親しかった友人に、久しぶりに会ったとき。

それまで会っていなかった何年、何十年という時間を飛び越えて、話し込んでしまうときがある。
もちろんお互いに会わなかった時間の分、歳を重ねているのだが、どこか、その当時に戻ってしまうというか。

いや、戻るというのも違うのだろう。
その時間を重ねた上で、その重ねた時間を、お互いに分かっている、というか。

「いやー、あれからこんなことを経験してね」
「実は、こんなことがあって」

そんな言葉を交わさなくても、何かお互いに織り込み済、というか。

もちろん、魔法使いでもあるまいし、そんなことはあるはずもないのだが。

けれど、時に。
そんなことを感じることが、時にある。

たとえば、そう感じてしまうことに、SNSが影響することは確かだろう。
近くの家族よりも、遠くの知人の方の動静を知っていたりするのは、よくある話だ。

だから、久しぶりに会ったけど、最近何をしたか知っているから、そんな感じじゃないよね、と。

もちろん、そういうこともある。
けれど、そうではない感覚が、ないだろうか。

SNSでつながっていない、学生時代の友人と会ったときのように。

それは、時間と空間を、超える。

私たちは、言葉にしている以上に、ボディランゲージで相手に伝えている、と聞く。

コミュニケーションとは、「誰が何を言った/言われた」というように、言語に限定して考えてしまいがちだが、決してそうではない。

自らの纏う雰囲気、空気が相手に伝わる。
親、恋人、子ども、きょうだい…関係性が近くなるにつれて、それは顕著だ。

取り繕ったように言ったけれど、全く伝わっていない。
何も言っていないのに、相手に伝わっている気がする。

そんな経験を、誰でもしているのではないだろうか。

それは、直接会う人だけ、というわけでもない。
メールや、何か、物理的な接触がなかったり、同じ空間にいなかったとしても。

それは、伝わるのかもしれない。

そして、それは。
それは、メールなり何かコミュニケーションを取っている相手だけ、だろうか。

もしかしたら、そうではないかもしれない。
それは、直接会っても、メッセンジャーすら、交わしていない間であっても。

私たちは、何がしかを伝えあっているのかもしれない。

そうでもなければ、あの感覚は、説明がつかないようにも思う。

そして、それは。
もしかしたら、人に限らないのかもしれない。

人でなくても。
猫でも、木でも、陽光でも。
いま、生きていなくても。

いつか、どこかで。
いつも、どこかで。
伝えあっているのかもしれない。

だからこそ。

だからこそ、私は言葉を紡ぐ、のだが。