たとえば、以前にとても親しかった友人に、久しぶりに会ったとき。
それまで会っていなかった何年、何十年という時間を飛び越えて、話し込んでしまうときがある。
もちろんお互いに会わなかった時間の分、歳を重ねているのだが、どこか、その当時に戻ってしまうというか。
いや、戻るというのも違うのだろう。
その時間を重ねた上で、その重ねた時間を、お互いに分かっている、というか。
「いやー、あれからこんなことを経験してね」
「実は、こんなことがあって」
そんな言葉を交わさなくても、何かお互いに織り込み済、というか。
もちろん、魔法使いでもあるまいし、そんなことはあるはずもないのだが。
けれど、時に。
そんなことを感じることが、時にある。
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たとえば、そう感じてしまうことに、SNSが影響することは確かだろう。
近くの家族よりも、遠くの知人の方の動静を知っていたりするのは、よくある話だ。
だから、久しぶりに会ったけど、最近何をしたか知っているから、そんな感じじゃないよね、と。
もちろん、そういうこともある。
けれど、そうではない感覚が、ないだろうか。
SNSでつながっていない、学生時代の友人と会ったときのように。
それは、時間と空間を、超える。
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私たちは、言葉にしている以上に、ボディランゲージで相手に伝えている、と聞く。
コミュニケーションとは、「誰が何を言った/言われた」というように、言語に限定して考えてしまいがちだが、決してそうではない。
自らの纏う雰囲気、空気が相手に伝わる。
親、恋人、子ども、きょうだい…関係性が近くなるにつれて、それは顕著だ。
取り繕ったように言ったけれど、全く伝わっていない。
何も言っていないのに、相手に伝わっている気がする。
そんな経験を、誰でもしているのではないだろうか。
それは、直接会う人だけ、というわけでもない。
メールや、何か、物理的な接触がなかったり、同じ空間にいなかったとしても。
それは、伝わるのかもしれない。
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そして、それは。
それは、メールなり何かコミュニケーションを取っている相手だけ、だろうか。
もしかしたら、そうではないかもしれない。
それは、直接会っても、メッセンジャーすら、交わしていない間であっても。
私たちは、何がしかを伝えあっているのかもしれない。
そうでもなければ、あの感覚は、説明がつかないようにも思う。
そして、それは。
もしかしたら、人に限らないのかもしれない。
人でなくても。
猫でも、木でも、陽光でも。
いま、生きていなくても。
いつか、どこかで。
いつも、どこかで。
伝えあっているのかもしれない。
だからこそ。
だからこそ、私は言葉を紡ぐ、のだが。