大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー見習い。

書評:アルフォンス・デーケン著「死とどう向き合うか」に寄せて

正月は 冥土の旅への 一里塚

めでたくもあり めでたくもなし

 

かの一休禅師の、正月に頭蓋骨を持ち街中を歩いたという、有名な逸話に出てくる言葉である。

 

昔は数えで歳を数えたため、正月に皆一斉に歳をとった。

正月のめでたさは、今でいう誕生日のめでたさとともにあったのだろう。

そんな正月に、一休禅師は死を想い、世の無常を説いた。

 

新年を祝うムードの正月だからこそ、「死」について考えるのもまた、非常に意味のあることのように思う。

 

 

ということで、この正月にアルフォンス・デーケン著「死とどう向き合うか」(NHK出版)を読んだ。

この本はもともとカウンセラー/作家/講師である根本裕幸さんがブログの中で勧められておられたことで知った。

 

著者はドイツに生まれ、上智大学で30年にわたり「死の哲学」を教えてこられ、「死生学」の泰斗でもある。

 

私たちが生きる上において、最も重要かつ深淵な存在でありながら、それを語ることすらタブーとされがちな、「死」という存在。

本書では、その「死」について、長年の講義や死生学を広める活動をされてこられた経験から、さまざまな側面から平易な言葉で語られている。

 

死生学、遺される者の悲しみ、突然死、自殺、尊厳死安楽死、病名告知、ホスピスの歴史と現状、日本の終末期医療、死への準備教育のすすめ…

本書の扱うのは、人が「死」と関わる様々な局面の話題に及ぶ。

 

本書を通読して感じるのは、「死」というものを考えるとき、それは二つの側面に集約されるように感じる。

すなわち、自分自身の死と、周りの大切な人の死、という二つである。

 

前者については、死後どうなるのかわからないが、自分自身が「死ぬ」ことについての態度を決めることはできる。

それはすなわち、いま現在の生をどう生きるのか、ということにつながる。

死生学という言葉が表すように、死を考えることは、生を考えることに他ならない。

 

誰もがいつかは死を迎える。

それは当たり前すぎて、日常の中では忘れてしまいがちなのか、それとも死への恐怖というものが、あまりにも大きいから直視することがなかなかできないのか。

おそらくは両方あるのだろうけれど、死を自覚することは、このいま在る生を輝かせることは、疑いようがない。

 

本書の中に描かれている、著者が出会ってきた、自分自身の死を自覚せざるを得なくなった人たちの、さまざまなプロセスを読むだけでも、死について想いを馳せることができるように思う。

 

 

そして、もう一つの周りの大切な人の死。

 

出会いの素晴らしさは、誰しもが語る。

ただ、出会いがあれば、別れが必ずある。

それは、今生ではもう会えない別れになることもある。

 

大切な人の死をどう向き合うかは、すなわち自分自身の生にどう向き合うか、に他ならない。

 

私自身、両親を立て続けに亡くした経験があるため、本書に出てくる人たちには身がつまされる思いがしたし、また彼らが経てきたプロセスは、自分自身もその通りに経験してきたプロセスでもあった。

 

大切な人を亡くした時、人はどんな反応を示し、どんなプロセスで立ち直っていくのか。

本書では、それを「悲嘆のプロセス」として、12の段階を経るとしている。

 

1.精神的打撃と麻痺状態

2.否認

3.パニック

4.怒りと不当感

5.敵意とルサンチマン(恨み)

6.罪意識

7.空想形成、幻想

8.孤独感と抑うつ

9.精神的混乱とアパシー(無関心)

10.あきらめー受容

11.新しい希望ーユーモアと笑いの再発見

12.立ち直りの段階ー新しいアイデンティティーの誕生

 

必ずしもこの順番というわけではないが、多くの人はこうした心理的プロセスを経る。

私自身、振り返ってみても、うなづけることが多い。

 

それを知ることは、いつか「自分の大切な人が亡くなったとき」に役立つだけではなく、「自分の周りの誰かが、大切な人を亡くしたとき」に、どう接したらいいかを考えることにも役立つ。

 

たとえば、本書のこんな例を引用してみたい。

 

家族の不慮の死に遭遇した遺族に対する時、周囲の人は見舞いの言葉一つにもこまやかな配慮が必要です。次に、コミュニケーションの妨げとなる好ましくない言葉の例をいくつか挙げましょう。

①がんばろう!(本人はすでに十分がんばっています。この言葉は本人のみが使っていい言葉です)

②早く元気になって!(言葉だけの安易な励ましは、かえって反発を招きます)

③私にはあなたの苦しみがよく分かる(当事者でなければわからないことです)

④あなただけじゃない、だれだれさんよりはあなたのほうがまだまし(他人との比較は特に禁物です)

⑤もう立ち直れた?(答えようがなくて、なお悲しくなります)

などは、傷口をさらに広げかねません。

だれもが、いちばんありがたかったのは、黙って自分の話を聞いてくれることだったと言います。

A子さんは、震災後、ずっと日がたってからも、折にふれて手紙や電話で見舞ってくれた友人や、道で出会ったとき、何も言わずにただ深々とお辞儀をしてくれた人には、その無言のしぐさに言葉以上のいたわりを感じて、深く感動したと述べていました。

 

「死とどう向き合うか」P.66,67

 

まさに、私自身も、そうだったと感じた。

そして、そうした静かな愛を私に向けてくれていた、多くの周りの人に、あらためて感謝したいと感じ、涙が流れた。

 

愛する人との別離を経験した人も、そうでない人も。

周りにそうした経験をされた方がいる人も、そうでない人も。

一読の価値が必ずあると思われる。

 

愛する人を亡くした、喪失の事実はなくならない。

けれど、それを機に再誕生のプロセスを歩むことはできる。

 

著者は、それをこんな言葉で表現している。

 

出会いという言葉は、日本語の文字そのまま「出」て「会」う、つまり、自分の殻から出て、他者の心と会うことです。思い切って積極的に一歩踏み出せば、苦しんでいるのは自分ばかりではないこと、むしろ喪失の苦悩は、多くの人と分かち合える普遍的な体験だということに、だんだん気づいていけるでしょう。同じような苦しみを抱えるほかの人々に思いやりを示すのは、狭い自我の束縛から解放されて、より成熟した人間へと成長していく現実的なステップです。

このような状態を、アメリカの著述家ウィル・デューラントは、「大きな苦しみを受けた人は、恨むようになるか、やさしくなるかのどちらかである」という味わい深い言葉で表現しています。結局、悲嘆のプロセスから何を引き出すかは、遺された人のそれからの人生に対する取り組み方によって、大きく違ってくるのではないでしょうか。

 

同書 p.41,42

 

恨むようになるか、やさしくなるか。

まさに、そのように感じるのだ。

 

 

「死」というセンシティブな議題だけに、少し重い話が続いてしまう。

しかし、最後に著者は笑いとユーモアこそが、終末期のケアに重要だと述べていることを強調しておきたい。

 

死を目の間にした人がいるからといって、いつも深刻になって緊張している必要はないのです。日本では、ユーモアや笑いは、死とは全く別の次元のことのように思われがちですが、考えてみれば、私たちは死のその瞬間までは生きているのですから、もっとほほえんで楽しく生きることを心がけるべきではないでしょうか。

 

本書 p.208

 

死を目の前にした人がいても、笑って生きることが大切だと語る。

ならば、常日頃から、なおさら笑っていきたいものだと感じる。

 

最後に、そんなユーモアのあふれる、著者の友人の母親の最期を引用して、本項を終わることにしたい。

 

ミサが終わると、お母さんは目を開いて、「私のために祈ってくれてありがとう。ところで、ウイスキーを一杯飲みたいのだけれど」と言って、皆を驚かせました。子どもたちがウイスキーを持ってくると、お母さんは一口飲んで、「ぬるいから少し氷をいれてちょうだい」と言ったのです。あと二時間くらいしかもたないだろうと言われた人が、氷の心配までするので皆ショックを受けました。慌てて氷を探してきて入れると、お母さんは「おいしい」と言って全部飲んでしまいました。そして今度は「タバコを吸いたい」と言いだしたのです。

とうとう、たまりかねた長男が、「医者はタバコはいけないと言っていますよ」と言いますと、母親の返事は、「死ぬのは医者ではなくて私ですよ。タバコをちょうだい」でした。そして悠々とタバコを吸い終わると、皆に感謝して、「天国でまた会いましょう。バイバイ」と言って横になり、そのまま息を引き取りました。

その時、悲しんだ子どもは一人もいませんでした。もちろん、お母さんの死は悲しいのですが、その死に際のユーモラスな明るさを思い出して、いかにもお母さんらしい死に方だと口々に言って笑いました。

この母親は生涯、ほとんどウイスキーやタバコを口にしませんでした。ですから、死ぬ前にどうしても飲みたかったわけではなかったのです。彼女はそれまでに何回も親戚や友人の葬式に出て、皆が涙を流して悲しんでいたのを思い出したのです。それで、自分の死によって子どもや孫たちを悲しませるのではなく、明るい雰囲気のコメディーを遺そうとしたのでしょう。なんという美しい愛と思いやりでしょうか。それも、自分が死に直面しているいちばん苦しい時にです。普通、私たちは、人生最期の三時間では、もう何もできないと思い込んでしまいますが、このお母さんは、ユーモアによって、子どもと孫たちに生涯忘れられない貴重なプレゼントを遺したのです。

 

本書 p.153.154

 

無常観や悲壮感のある日本人の死生観とは、また違って、ユーモアと笑いのある死に方もあるのだと思わせてくれる。

 

自分は、どう死にたいのか。

それを考えることは、とりもなおさず、どう生きたいのか、という問いと同義である。

 

そんなことを考えさせられる、本書だった。 

 

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