大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

言葉にする、という強さ。

強さにも、いろんな種類の強さがある。

分かりやすい筋力、腕力といった強さ。
逆境や不運にもめげない、負けない強さ。
初心貫徹、一つの決めたことをやり遂げる強さ。

そのあたりは、誰が見ても分かりやすい。
あるいは、その逆もまた、強さの一つだと言える。

自分の弱み、できないことを認める強さ。
折れそうな自分を認めてあげる強さ。
逃げる、あるいは撤退を決める強さ。

そんなこんなで、思いつくだけでもいろいろな強さあるのだが、「言葉にする」ということも、ある種の強さなのではないかと思う。

たとえば、息子はいつも拗ねるとこう言う。

「どうせ、おとうは娘のほうがだいじなんでしょ」

そりゃあ、男親にとっての娘の存在は、息子のそれとは違う。
それは、どっちが大事か、というよりも、まったく比較対象にならないのだ。

スキージャンプと、ホイコーローを比べるようなものだ。
それはまったく比較の土俵が違う。

けれど、そんな説明を息子にできるはずもなく、またしたところで理解されるとも思えないので、息子が拗ねてそう言うと、私は答えに窮するのだ。

そんな話を以前にしていたら、「息子くんが、ほんとうにそう思っているんなら、きっと怖くて口に出せないと思うよ」と教えられた。

たしかに、それはそうだと気づかされた。

そうじゃないからこそ、口に出せることもある。

言葉にできるということは、強いことなのだ。

だからといって、息子のその問いにうまく答えられるわけではないが。

居場所がほしかった
ともだちがいなかった
もっと大事にしてほしかった
とてもかなしかった

過去を振り返って、そう言いたくなることも、時にはある。

けれど、それを言葉にできるということは、強いことなのだろう。

ほんとうにその渦中にいるときは、先の息子と同じく、言葉に出せないものだ。

だから、もしそんな言葉が口をついて出てきたら。

きっと、それだけ強くなったのだ。

だからといって、そのときのかなしみや、さびしさや、そういったものが消えるわけではない。

それでも、言葉にすることで。
言葉にすることで、そのときの感情に寄り添うこともできよう。

また言葉にすることで、誰かに伝えることもできよう。

その誰かと、その痛みを分かち合うこともできるかもしれない。

言葉にするということは、強さなのだと思う。