強さにも、いろんな種類の強さがある。
分かりやすい筋力、腕力といった強さ。
逆境や不運にもめげない、負けない強さ。
初心貫徹、一つの決めたことをやり遂げる強さ。
そのあたりは、誰が見ても分かりやすい。
あるいは、その逆もまた、強さの一つだと言える。
自分の弱み、できないことを認める強さ。
折れそうな自分を認めてあげる強さ。
逃げる、あるいは撤退を決める強さ。
そんなこんなで、思いつくだけでもいろいろな強さあるのだが、「言葉にする」ということも、ある種の強さなのではないかと思う。
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たとえば、息子はいつも拗ねるとこう言う。
「どうせ、おとうは娘のほうがだいじなんでしょ」
そりゃあ、男親にとっての娘の存在は、息子のそれとは違う。
それは、どっちが大事か、というよりも、まったく比較対象にならないのだ。
スキージャンプと、ホイコーローを比べるようなものだ。
それはまったく比較の土俵が違う。
けれど、そんな説明を息子にできるはずもなく、またしたところで理解されるとも思えないので、息子が拗ねてそう言うと、私は答えに窮するのだ。
そんな話を以前にしていたら、「息子くんが、ほんとうにそう思っているんなら、きっと怖くて口に出せないと思うよ」と教えられた。
たしかに、それはそうだと気づかされた。
そうじゃないからこそ、口に出せることもある。
言葉にできるということは、強いことなのだ。
だからといって、息子のその問いにうまく答えられるわけではないが。
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居場所がほしかった
ともだちがいなかった
もっと大事にしてほしかった
とてもかなしかった
過去を振り返って、そう言いたくなることも、時にはある。
けれど、それを言葉にできるということは、強いことなのだろう。
ほんとうにその渦中にいるときは、先の息子と同じく、言葉に出せないものだ。
だから、もしそんな言葉が口をついて出てきたら。
きっと、それだけ強くなったのだ。
だからといって、そのときのかなしみや、さびしさや、そういったものが消えるわけではない。
それでも、言葉にすることで。
言葉にすることで、そのときの感情に寄り添うこともできよう。
また言葉にすることで、誰かに伝えることもできよう。
その誰かと、その痛みを分かち合うこともできるかもしれない。
言葉にするということは、強さなのだと思う。