気付けば睦月も終わり、1年ぶりに如月が訪れる。
どこか、吹く北風には寒さの芯のようなものがなく。
明日は、もう節分。
その翌日には、春立てる日、立春である。
時は、いつも滔々と流れていく。
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流れていく時間を、居場所にできたら。
こころが痛んで辛いとき、そんなことを思った。
それが痛いことを、感じることすらできず。
ただただ、何もできず、ベッドから起き上がることもできず、暮れていく陽の光の色を眺めていたとき。
流れていく時間は、何もできない自分を責めてくるようだった。
そんなことはなく、ただただ、時は流れ行くだけなのだけれど。
時は、過ぎ行くのみ。待ってはくれない。
そして、気付いたときにはもう過ぎ去っているもの。
こうしている間にも失われていき、二度と取り戻せないもの。
そう考えてしまうと、時は鈍い色をした刃のようになる。
その切り口は、圧し潰したように、痛い。
無機質な灯篭に照らされて、機械仕掛けの歩道が進んでいく。
かたかたと音を立てながら、ゆっくりとした等速度で。
どこか、時間に対してそんなイメージを抱いてしまう。
そして、それは進歩主義的な印象と相まって、進まなければならないという強迫観念を生む。
前に進まなければ。
歩まなければ。
昨日よりも、今日よりも、明日よりも。
進まなければ、歩かなければ。
遅れてしまう。
時の流れに。
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けれど、ほんとうのところ。
時間は、直線ではないのかもしれない。
季節が円環を描くように。
いつか見た空の色が、またどこかで見られるように。
時は、弧を描いて、また戻る。
その中空に描かれた弧の内面が、居場所になる。
風はやわらかに、雨はやさしく。
雲はささやき、陽はそこにいる。
時は、流れていく。
そんな小さなものを、ただ眺め、愛でることだ。
歩くのも、進むのも、その後でいい。
如月ついたちの、明け方。