立春過ぎて。
日に日に、春の気配が感じられるようになってきた。
風はどこか温さを含み、朝は少しずつ早くなり。
陽は力強さを増し、夜の帳が降りるのが遅くなってきた。
不可逆な季節の流れは、いろんなことを教えてくれる。
師走のころ、まだ薄暗かった風景も、同じ時間で既に太陽が力強く輝いている。
春の訪い。
小寒から大寒のころの、張り詰めたような空気はすでになく、どこか弛緩した風が肌に触れる。
それは、どこか透き通ったものから、濁りを見るようでもある。
春は、濁り。
春の訪れを告げる、山菜たち。
フキノトウ、タラの芽、コシアブラ、ノビル…いずれも、苦みやえぐみが特徴的だ。
その苦みが、冬の間に溜め込んだ毒気や、身体のこわばりを解いてくれると聞く。
喜ばしい春の訪れが、苦みや濁りとともに訪れるのは、おもしろいものだ。
春は、濁り。そして、苦み。
路地のツツジも、少しずつ葉を開き、芽を伸ばしているようだ。
まだ遠いが、その花が満開になる小満のころを想う。
冬の朝の張り詰めた空気の風景もいいが、それは雪の結晶のような、無機質な絶対的な美しさなのかもしれない。
やはり、生があるところには、苦みや、濁りが必要なのだろう。
春の空には、霞がかかる。
その空の下で、厳しい冬を越えた花たちは咲く。
いのちは、温く濁った空気の下でこそ、咲く。
濁を、厭わず。
この時期には目に付く赤に、黄色がこぼれて。