息子と娘が小学校の授業で、いろんな小物を使って工作をするらしい。
小学生のころ、図画工作が苦手だった私にとっては、工作と聞くと遠くを眺めてしまう。
ペットボトルのキャップ、お菓子の空箱、小石、紐、ボタン…工作に使えそうな小物を集めないといけないのだが、その中に「ドングリなどの木の実」という項目があった。
曇りの昼下がり、息子と娘と近所の公園に出かける。
探してみるとなかなか見つからないもので、しばらくウロウロと公園をめぐる。
代わりに小石を集めてみたりもしてみたが、飽きたらしい息子と、持ってきたサッカーボールを蹴ったりしていた。
なかなかうまく蹴れなくて、苦戦する息子。
それでも、うまく蹴れたときは、楽しそうだ。
息子くらいの頃、私は野球が好きだった。
けれど、近くに野球をする友人がいなかったこと、そしてあまり上手でなかったこともあり、少年野球などには縁がなかった。
一度、練習に参加させてもらったら、まったくついていけず、散々だったことも、野球をプレーすることから遠ざけた一因ではあっただろう。
中学校に入り、私はサッカー部に入った。
当時はJリーグが発足したばかりで、ブームがきていて、当時の私のまわりの友人たちも、こぞってサッカーに熱中していた。
周りに流されて、始めた。
一人にならないために。
そんなことも、言えるのかもしれない。
もちろん、サッカーをやっていて楽しいと感じる時間は、たくさんあった。
けれどそれは、いまの目の前の息子の、ボールを思い切り蹴る喜び、その純粋さとは、また少し違っていたように思える。
それは、私が野球のボールを一人で壁当てしていたときの、感覚に近いような気もする。
どこか、始めるときの動機の不純さというか、そういった罪悪感のようなものを、サッカーに対してはずっと持っていたように思う。
無心で遊べていた壁当ての、その楽しさ、喜び。
それを感じていた自分を、裏切ってしまったような。
時に大きく空振りをしながら、ボールを蹴り続ける息子。
娘も入ってきたので、そっと私はその場を離れる。
公園の隅の、木陰のあたりを歩く。
探していたドングリは、そこにごろごろと転がっていた。
なんだ、あるじゃないか。
腰をかがめ、汚れていなさそうなものを選んで、拾っていく。
原始時代の名残か、こうした収穫作業というのは楽しいものだ。
少しの時間で、両手いっぱいのドングリが集まった。
土を払い、ポケットに突っ込む。
足元には、まだたくさんのドングリが転がっていた。
どんな過去も、選択も。
自分を責めるためのものではない。
探し方次第で、ドングリは見つかるのかもしれない。
ごろごろと転がる、秋の名残。
息子と娘は、もう飽きてブランコに移行したようだった。
置いてきぼりになっていたサッカーボールと、もう少し戯れてみようかと思った。
じゃらじゃらと、ポケットのドングリが鳴っていた。