久しぶりに、朝からの雨だった。
いつもの時間に明るさはなく、季節が逆巻きになったようだ。
窓を開けると、雨の匂いが鼻腔をくすぐる。
嗅覚は、どこか記憶を呼び起こす。
嗅覚と記憶を司る期間は、近い場所にあるのだろうか。
におい、香りといったものは、言語から最も遠く、表現することが難しい。
「新緑の木々の香り」「シャネルの19番」「祖母の家の居間の匂い」…対象を指し示すことはできても、「それがどんな香りか」は、説明したり表現したりすることができないからだ。
比喩表現に留まらざると得ない、というべきか。
あるいは、他の表現をするのであれば、他の視覚、聴覚、あるいは味覚といった感覚に比べて、嗅覚は現在と過去を区別しないとも言える。
匂い、香りに身を浸していると、どこか時間の意識を忘れ、過去も未来も混然一体となった時間に包まれることもあるだろう。
アロマ、ハーブといったものが、時に人を癒す効果を持つのは、そんな嗅覚の持つ力からなのだろうか。
嗅覚、匂い、香りといったものは、不思議だ。
そして、雨にも匂いがある。
季節ごとの、匂いが。
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「がっこうまでいくの、めんどいなー」という息子。
たしかにめんどいよな、と返す私には、小学生のころの記憶が浮かんでいた。
いや、その記憶の上に、今日のわたしがいたのか。
通学団で集団登校するとき、誰と、どんな言葉を交わしていたのだろう。
学区の中でも遠方の部類だった私の通学団は、学校に着くまで、結構な時間がかかったように思う。
私はよく、ちいさな石を、学校までの道のりを、ずっと蹴っていく遊びをしていた。
周りから遅れないようにしながら、ちいさなその石を、蹴っていくのだ。
手を使ってはいけない。
コースを外れたり、遅れたりしそうになったら、アウト。
信号のある交差点が、鬼門だった。
雨の日は、その遊びができなかった。
けれど、皆が傘を差して歩くので、必然的に静かな時間になった。
傘をぱらぱらと叩く雨の音が、心地よくて好きだった。
学校に着くと、雨の日の校庭には「赤旗」が立っていた。
グラウンド使用禁止、の合図だ。
足が遅く体育が苦手だった私にとって、赤旗は嬉しいものだった。
けれど、好きだった休み時間のドッジボールもできないので、痛し痒しではあったのだが。
フロントガラスを叩く雨の音が、また強まったことに気づいた。
どこか、雨はやさしく。
記憶とともに、私はいた。