愛知県一宮市、真清田神社を訪れた。
朝早く向かった道中、雨がぱらついていた。
午前中は曇り、午後は晴れとの予報で、傘を持ってきていなかった。
ここを訪れる時は、いつも晴れている記憶ばかりだったが、今日はめずらしく雨模様のようだった。
着くころには止んでいてほしいな、という思惑とはうらはらに、駐車場に着いてもフロントガラスを叩く雨は、逆に強くなるようだった。
傘がないので、どうしようかと迷ったが、せっかく来た手前と割り切って、ドアを後ろ手に閉める。
いつもは青空をバックにする雄大な楼門も、雨霧に煙って。
晴れの神社もいいが、雨の神社も趣深い。
以前に、雨の熊野古道を歩いたとき、峠の茶屋のおかみさんが、
「私は雨の古道が好きなんさ。風景がきれいだからね。でも、足元がわるいから、みんな嫌がるわね」
そんなことを話していたのを、思い出す。
今日は風も強く、冬に戻ったかのような、冷たい雨が滴っていた。
大粒の雨の中、しばし逡巡したが、手傘で拝殿に急ぐ。
手を合わせている間、拝殿の屋根を叩く雨音が心地よかった。
ふと見ると、肩口から思ったよりも濡れていた。
まあ、車の暖房ですぐに乾くだろう。
参拝を終えて、楼門の軒下でぼんやりと雨音を聴いていた。
やってきた年配の男性が二人、同じように雨宿りのためにか、立ち尽くしていた。
「ひどい雨風に振られたな」
「あぁ、冬に逆戻りだ」
お二人の話す、そんな声が聞こえた。
三寒四温、寒の戻り。
立春過ぎた寒さは、春の足音でもある。
それにしても、なぜ、「寒さ」は「戻る」のだろう。
反対の「暑さ」は、残暑よろしく「残る」のものなのに。
気温が上がることと、気温が下がること。
同じ季節の円環にありながら、それらは非対称なのかもしれない。
それは、人が生きる上での浮き沈みと、似ているのかもしれない。
日本語の表現の美しさを、私は雨音に乗せて考えていた。
少し肌寒くなってきたので、駐車場まで、また手傘をしながら走る。
車を境内から出して走ると、西の空には青空が広がっていた。
大粒の雨が叩いてた、さっきまでの時間は嘘のように。
そんなこともあるかと思いながら、ハンドルを切る。
空の青さは、澄み渡るような冬の色ではなかった。
どこか、気怠さを孕んだ、春の色だった。
ゆく冬を、私は少し惜しんだ。