日々浮かんでは消えていく、うたかたのような、感情たち。
嬉しさ、悲しさ、楽しさ、怒り、喜び、無力感、切なさ、寂しさ、やすらぎ、罪悪感、愛しさ、諦め…
あるいは、そうした言葉のラベルを貼ることもできないような、こころの織り成り。
時にそれは天上への階段を昇るようにも感じられ、
時にそれは胸をえぐり取られるような痛みとして感じられる。
それがあるからこそ、人は人であるのかもしれない。
また、その感情こそが、その人をその人たらしめているとも言える。
人間らしさ、あるいはその人らしさとしての、感情。
隣の人の虫歯の痛みを味わうことができないように、お腹の痛みを共有することができないように。
感情はどこまでも個人的なものだ。
だからこそ、感情は基本的に自分で味わい切るしかない。
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時に、怒り、あるいは憎しみ、苛立ち。
そういったものが噴き出てくると、誰かにそれをぶつけたくなる。
特に、そのネガティブな感情の原因となった(と自分が思っている)対象に向かって。
言いたくても言えないこと、我慢していること、抑え込んでいること…それを、相手に面と向かって言えたら、どんなにスッキリするだろう!
そんな妄想をしてしまうことは、誰にでもある。
けれど、それを実際にやってみると分かるが、スッキリするのはほんの一瞬でしかない。
後から訪れるのは、冬の嵐よりもどんよりとした、鉛のように重いこころもようだ。
それが、長く続く。
誰かに感情をぶつけることで、その誰かを傷つけたという罪悪感を抱え込むからだ。
それは、真綿が首を絞めるように、ゆっくりと、かつ確実に、こころを蝕んでいく。
ネガティブな感情を誰かにぶつけることは、得策ではない。
だからといって、それを抑え込めばいい、というわけではない。
感情は、人間であれば湧き出てくる自然なもの。
呼吸を止めたり、便秘になったりすると、どうしたって苦しくなるのと同じように。
湧き出てきたものは、感じてあげて、流していくことが自然だ。
思い切り大きな声で歌う、叫ぶ、
走る、躍る、筋トレするなど身体を動かす、
自分の感じたことを書きつける、
映画やドラマで涙を流す…
さまざまな方法で、感情を発散し、流していくことができる。
そうすることで、感情にのまれて行動をすることを避けることができる。
これを自分の感情に責任を持つ、という。
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その上で。
感情は、何のためにあるのだろう。
ただ、自分一人で、マスターベーションのように処理するだけのものなのだろうか。
無論、マスターベーションが悪いという訳でもないが、それはどこか、寂しい。
なぜ、人は感情を感じるのだろう。
連綿と紡がれる進化の歴史の中で、なぜ人は感情というシステム、あるいはそれを感じる機能を、残したのだろう。
陸上に上がった時のエラ呼吸のように、必要ないものは退化していくのだとしたら、感情が残っていることには、何らかの意味があるようにも思える。
感情を誰かにぶつけても、何の解決もしない。
そもそも、ぶつけたくなる感情は、本音ではない。
そして、感情をぶつけてしまうのは「わかってほしいから」であり、「わかってくれない」のは、実は自分自身であることが多い。
自分が、自分自身のことを、わかっていないから、ぶつけたくなる。
そうではなくて。
伝えることは、できるように思う。
怒りや苛立ち、憎しみのラッピングを丁寧にほどいて、その中にあるやわらかな感情を。
ただ、そっと差し出すように。
わたしは、さびしい。
わたしは、うれしい。
わたしは、いとしい。
自己と他者の間には、わたしとあなたの間には、物理的な断絶があるけれど。
こころの深いところでは、どこかつながっているようにも思う。
ストレングスファインダーの「運命思考」よろしく、すべてがひとつながりと考える私にとって、そう考えるのは、自然なことだ。
感情が、その深いところから染み出してきたものだとするなら。
そのつながりを、感じさせるためのものなのかもしれない。
感情は、やはり伝えるためにあるのだろうと、私は思う。