真夏の強い日差しによって、最も色濃い影がつくられるように。
人生最大の不幸が、時を経ると人生最大の恩恵になるように。
子どもの悪態の裏には、信頼と愛が隠れているように。
ものごとには、すべて表と裏があり、陰陽あわせて世界を形づくっている。
これは三角形だ、と思っても、違った角度から見れば正方形になっていたり。
いつもと違う方向から世界を眺めることは、生きることに自由を与える。
世界の見方が変わること、それを癒しと呼ぶこともできよう。
自分の反対側に何があるのか。
それに気づくと、早い。
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たとえば、自信のなさ。
あることに対して自信が持てないのは、そのことに対して真剣に向き合っていることを示す。
そして、ほんとうに怖れているのは、自信がないことではなく、その反対に、自分の力であり才能だ。
それは、自信があることや自分の手柄、実績などを周囲に吹聴する人ほど、その実、自分に対して自信がないことが多い。
たとえば、見捨てられることへの怖れ。
彼女にフラれることを怖れている彼は、その反対側に、彼女を見捨てることへの恐れを強烈に抱いている。
見捨てられる怖れと、見捨てる怖れ。
それは表裏一体であり、二人の双方が持っている怖れだ。
互いがそれに気づくと、あとは早い。
たとえば、不幸せを怖れるとの等量に、人は幸せを怖れる。
言い方を変えれば、幸せになりたいと思うのと同じくらいに、人は不幸でいたいと願う。
不幸でいた方が、得られるメリットがあるからだ。
一方だけに目を向けていると、必ず後ろ髪を引かれて、身動きが取れなくなる。
たとえば、加害者と被害者。
社会通念では、加害者が悪者であり、被害者は善意の上にいる。
けれど、被害者はその立場を利用して、加害者を責めることができる。
なぜ、あんなことをしたんですか、と。
あなたは間違っている、と。
その瞬間に、刃は逆を向き、被害者は加害者となり、加害者は被害者となる。
加えて、人はいったん被害者のポジションに入ると、その味をしめる。
他者からの同情や、あわれみや憐憫、かわいそうな私という、注目される立場だからだ。
自分が加害者と同じ地平にいることを自覚しない限り、その悲しい連鎖から抜け出すことは、難しい。
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反対側に、あるもの。
それを、自覚すること。
そのどちらが正しい見方か、ほんとうの見方が、ということを問う必要はない。
ただ、その反対側があることを認めること。
どんな下衆な自分の中にも、何人にも侵されざる神聖な領域があり、
どんな高貴な人間の中にも、ヘドロのように悪臭を放つ側面がある。
そのどちらかが、その人の正体だと言い張る必要もない。
ただ、反対側が在ること。
それを、認めるだけ。
太陽と、隣にそのたまごのような彩雲。
その反対側の空には、白い月がその横顔を見せていた。