大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

才能の在りか、逆・裸の王様、そして問題について。

才能の在りかと、問題、そして自分だけが見えている世界について。

1.自分の「当たり前」に潜む罠

他人の長所と短所はよく見える

誰しも、他人のことはよく見えるものだ。

欠点でも、長所でも。
放っておいても目に入ってくる。

あの人は、あのズボラな性格だけ、何とかしたらいいのに。
というような短所は、
あの人のおおらかさに、誰もが救われている。
というような長所と同義でもある。

短所と長所は、真正面を向いた合わせ鏡であるように。
そのどちらを見るかは、自分の中のフィルターをどちらにするかだけの話だ。

いずれにせよ、他人のそれがよく目につくことは間違いがない。

自分のことが一番わからない

翻って、誰しもが、自分自身のことはよく見えない。
たいていのセルフ・イメージなどは、その真逆で周りの人から見られているくらいで、ちょうどいいくらいだ。

自分の最も許しがたい短所や欠点が、周りの人からすれば「愛してやまない」「だからこそあなたがいい」という価値や魅力であることなど、日常茶飯事だ。

何より悲劇なのは、自分自身がまったくもって「当たり前」だと思っていることに、比類なき才能が眠っている、ということだ。

あなたは息をする、呼吸ができるという、とても素晴らしい才能をお持ちなのです。

と言われたところで、「は?」となるのがオチだろう。
そんな当たり前のこと、誰でもしているではないか、と。

いやいや、そんなことはありません。
肺で呼吸をするというのは、生命が何十億年もの長い時間をかけて獲得した、とんでもない能力なのです。
いつか、どこかの生物が、暗い海の底で。
太陽の下、思い切り肺呼吸することを、夢見ていたとしたら。
いま、あなたが息ができるということは、素晴らしい才能なのです。

そうやって、価値を伝えてくれる人は、熱弁するかもしれない。
けれど、それを聞いたところで、「ふーん」としか思わないだろう。

だって、「当たり前」なのだから。

そんな風にして、「当たり前」というフレーズに身を隠して、誰もが才能に蓋をする。

いや、蓋をするどころか、そもそも気づいてすらいない。

いや、そもそも。
「そんな種類の才能」があることすら、認知していないことも多いのかもしれない。

誰かにとっての「当たり前」とは、途方もない才能の源泉である。
それは、空気を吸うように当たり前にしてしまっているから、それをしていることすら、認識がないものだ。

2.才能と、役に立つことの違い

才能とは、自分が自分らしくあること

ここでいう「才能」とは、周りの人に褒めやされたり、称賛されたり、人助けになったり、お金を稼ぐことに役立ったりすることではなない。

もちろん、そうなっている場合もある。
それは、結果的にそうなっているだけであって、そうなっていることを「才能」と呼ぶのではない。

「才能」を発揮すると、(結果的に)褒められたり称賛されたり人助けになったり誰かの希望になったりお金を稼ぐことも、できるかもしれない。
けれど、その逆は真ではない。
つまり、褒められたり称賛されたり人助けになったり誰かの希望になったりお金を稼ぐことができなくても、「才能」と呼ぶものは存在する。

言い換えると、「才能」とは「その人らしさ」と言えるのかもしれない。

それに変な意味づけをしたり、大小を比較したり、市場価値を査定することに意味はない。

ただ、じぶんがじぶんらしくいること。
それこそが、「才能」である。
そして、多くの場合、それは周りの人に希望を与えるのではあるが。

自分だけが見えない、「逆・裸の王様」

じぶんらしさとは、自分では分からない。
それを取ってしまったら、自分でなくなってしまうのだから。

「当たり前」のようにしていることは、じぶんらしさ、才能が湧き出る源泉だ。

けれど、それは「当たり前」であるが故に、当の本人が認識することが難しい。

とんでもなく美しく輝く宝石を持っていても、自分だけがそれが見えない。
周りが褒め称え、称賛し、羨望のまなざしを向ける、その宝石。
それを持っている自分だけが、見ることができない。

裸の王様の、まったく逆のパターンだ。

かくも、世の中は皮肉で残酷なものだ。

3.問題とは、「才能=当たり前」に気づく瞬間

しかし、その才能=当たり前に気づく瞬間が、ある。

いわゆる、人生の上で何がしかの問題が起こったとき、である。

問題は、痛みをともなう。
痛みは、その人の「当たり前」を浮き彫りにし、「才能」を描写する。
寸分の狂いもなく、正確に。

凍えるような孤独の中にいる人は、つながりが当たり前ではないことを知る。
生き死にの大病を得た人は、きょうのいのちが当たり前でないことを知る。
人を愛せない苦しみの中にいる人は、誰かを愛するよろこびが当たり前でないことを知る。
家族の不仲を救えなかった人は、目の前の人の笑顔が当たり前でないことを知る。

誰しもが、「当たり前」を持っている。
だとするなら、みな裸の王様の逆であり、誰にも真似できない才能を持っている。

それは、一人では気づけない。

だからこそ。
人は言葉を持ち、誰かと話し。
ときにカウンセリングを受けたりするのだろう。

f:id:kappou_oosaki:20210329213330j:plain