さて、断酒して881日。
2年と5か月あまりが過ぎた。
取立てて書くほどの変化もなく、淡々と断酒生活を続けている。
それにしても、だ。
あの2年半ほど前、お酒を断つことを決めた時期。
よく飲みに行っていたし、自宅でもよく飲んでいたものだと思う。
根源的な寂しさを散らすために飲んでいた面は多分にあり、そうするとやはり度数の高いお酒で早く酔う、という飲み方もしていた。
もちろん、気の置けない人との楽しい酒席や、美味しい料理と合うお酒も好きではあったのだが。
それでも、酔うことで、感情を凍らせ、寂しさを忘れていたことは、事実なのだろう。
それが、どうだ。
百年に一度の感染症禍によって、飲み会や酒席の機会が殆どなくなるなど、誰が想像しようか。
いいか悪いかなどは別として、世の中、本当にわからないものだ。
もし、断酒をしていなかったら、どうしていたのだろう。
やはり、寂しさをお酒で散らしてたのだろうか。
それとも。
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寂しさから飲んでいた私が、お酒を辞める。
それは確固たる決意でもなく、ふとこころに浮かんだ、「なんとなく」辞めてみようという想いに、従っただけだ。
立冬も近づき、めっきり寒くなったころ、霧のような小雨の降る橋の上で、そう思った。
息子と娘は、川に棲むカメに、ぽいぽいとエサをあげていた。
それはおそらく、私の寂しさに対する感じ方の変化と、無関係ではないように思う。
自分は強い人間で、寂しくなんかはない。
そう、思っているこころのうちには、抑えられない大容量の寂しさが横たわっていた。
それを見ないように、蓋をしてきただけだ。
その蓋が開きかけると、お酒による封印が必要になる。
もちろん、習慣的なものもあったのだろうが。
さびしいんだよ。
とても、さびしいんだよ。
だから、つながっていてよ。
話をしてよ。
いっしょにいてよ。
そう、誰かに伝える怖さを、アルコールで塗りつぶしていたのかもしれない。
=
断酒を続ける中で、断酒を続けている方のさまざまな体験談を、調べて読んだりしてきた。
その多くに共通するのは、揺るぎない断固たる決意で、断酒を成し遂げているわけではない、ということだった。
多くの方が、飲みたくなる弱い自分を自覚して、飲酒しないような環境に身を置くなど、工夫していた。
出発点は、「絶対にしない」という決意ではなかった。
「自分は弱く、そうしてしまう可能性が高い」という、弱さを認めるところだった。
人の意志は、弱い。
その弱さを認めることから、始めていた。
=
自分は弱い人間で、すぐ寂しさを感じます。
お酒と断ったころ、私はそんなことを認めつつあったのだろうか。
いまは?と聞かれれば、
大容量の寂しさを抱えています。
だから、いっしょにいてください。
そう、言えるだろうか。
何の衒いもなく、というのは難しいかもしれないが。
それでも、言えそうな気もする。
それにしても、不思議なものだ。
寂しさが嫌で、強くなりたいと願っていたような気もするのに。
その真逆で。
弱さを認め、寂しさと共にあるとき、それはつながりに変わる。
寂しさを認める。
弱さを認める。
誰かに、それを話す。
友人、たいせつな人、あるいは、カウンセラー。
ときにそうした弱さを認め、話し、放すとき。
人は、輝きを放ち始める。