大嵜 直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー見習い。

緑、日に日に青く。 ~愛知県名古屋市「熱田神宮」訪問記

去年あたりから定期的に訪れている熱田さん。

今週も訪れすことができた。

 

この前、訪れたときはいつだったかと思い出すと、リクルートスーツを着た方が多かったことを思い出す。

そうだ、新年度はじまりの4月ついたちに訪れたのだった。

 

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その時と比べると、ずいぶんと木々の青さが深まっているようだ。

この日の最高気温は27度。

もう初夏と呼べるような陽気である。

 

目には青葉 山ほととぎす 初鰹

 

江戸っ子が好んだ「初物」を詠った俳句を、ふと思い出す。

調べてみると、詠んだのは江戸時代の俳人、山口素堂(1642~1716)だそうだ。

300年も前の昔から、新緑の深まりに、夏の訪れを見ていたと思うと、感慨深くなる。

 

山ではほととぎすが鳴き、海では初鰹が上がるころ。

新緑、初夏。

もうそろそろ、夏も近づく八十八夜。

 

息を吸って、吐いて。

それだけで気持ちいい季節になった。

 

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正門の鳥居に掲げられた榊も、緑が深いような気もする。

一礼して、いつもの参道を歩く。

 

時間が早めだったせいか、誰もいない静かな参道だった。

一歩境内を出れば、大きな交通量の多い通りがあるのに、まるで別世界のような静けさを、いつも湛えている。

 

それは、木々に囲まれた物理的な距離によるものだけでは、ないような気もする。

何十年も、何百年もの昔から、こころしずかに、祈りを捧げて、積み重ねられてきた空気。

それが、この静寂をもたらしているようにも思える。

 

歳を重ねるごとに、そうして積み重ねられてきた歴史、すなわち有形無形の財産に、想いを馳せるようになったように思う。

その積み重ねがあってこそ、こうしてこころしずかに参道を歩くことができる。

それは無力感とは違う、私一人の小ささを思い知らせてくれる。

 

無力さ、あるいは矮小さとは異なる、自己認識の一つかもしれない。

わたしという存在は、全体の中の、小さな小さな「一」でしかないのだ。

 

ただ、それは「零」ではない。

たしかに、存在している。

 

今日もまたひとつ、小さな祈りを捧げよう。

 

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それにしても、参道というのは、不思議なものだ。

鳥居をくぐって、玉砂利の音を聞きながら歩く時間。

 

どこか、それはいつもの日常から切り離される。

内省であり、瞑想の時間でもある。

 

祈りを捧げる場所まで、それは続く。

終わりがあるからこそ、内省ができるのかもしれない。

 

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本殿での参拝を終えて。

 

生命力がおさえられないといった感じの装い。

日に日に青く、緑。

 

ほんとうに、心地のよい季節になった。