いくらなんでも、早すぎる梅雨入りのように感じる。
東海地方は、もうすでに梅雨入りしたそうだ。
平年よりも21日も早いらしく、1951年以降では観測史上2番目の早さだそうだ。
肌にまとわりつくような湿気と、灰色に覆われた空が、梅雨入りを実感させる。
それでも、雨が上がった後の風の感触は、5月のそれなのが不思議だった。
このまま、平年のように7月下旬あたりまで、ぐずついた天気が続くのだろうか。
それとも、平年よりも早めに梅雨明けするのだろうか。
梅雨の匂い。
それはどこか、昔の記憶を呼び起こすようだ。
時に湿気を含んだ教室の匂いであったり、時に傘を忘れて雨の中を走った記憶だったり。
それは、しゃぼん玉のようにパチンと割れて、そのときの記憶を呼び覚ます。
そのしゃぼん玉は、普段はどこに仕舞われているのだろう。
記憶とは、あるいは過去とは、どこにあるのだろう。
色、香り、味、風景。
さまざまなものを媒介して、私たちは記憶をどこかから引っ張り出してくる。
あのとき訪れた景色。
あのとき食べた料理の味。
あのときの鼻腔をくすぐった香り。
ふとしたときに蘇るそれらは、どこに仕舞われていたのだろう。
そして、それを思い出しているとき、それは思い出ではなく、いまここにある。
記憶は過ぎ去った時間のもの、というわけでもなさそうだ。
その時間、風景、香り…そうしたもの諸々が、いまここに一緒にあるようにも思える。
目に映る風景のなかに、しゃぼん玉に仕舞われた記憶が、一緒にある。
五感をきっかけにした何かの拍子に、そのしゃぼん玉は割れて、いまこの風景に重なる。
過去と記憶は、どこかの重ね絵のように。
いまとともにあるように思える。
もしそうだとするなら、何も失ってもいないし、どこへも行ってもいない。
このいま目の前に、すべてがともにある。