締切というのは、物書きにとって魔法の杖であると同時に、地獄からの使者でもある。
締切がなければ、おそらくは何事も形にはできない。
デッドラインがあればこそ、頑張れるし、無理もするし、あたふたしながら間に合わせようとする。
それは、死があればこそ生の輝きがあることと相似でもある。
だからといって、死は喜ばしいものだと思えるほど、人生に対して達観することができるのは、高僧か聖者くらいのものだろう。
そして、分かりやすいことに締切は重なるのだ。
こんなに重なるはずじゃなかったのに。
そう恨めしく思いながら、パソコンの前に座る。
だいたい、締切が近づくと機嫌が悪くなる。
息子の呼びかけにもウワノソラで、息子が怒ると逆ギレする。
「なんで、今日のおとうはそんなにおこってるんだ?」
風呂場で息子はそう聞いてくる。
「あぁ、ごめんな。しめきりがちかくて、イライラしてるんだ」
答える私。
ここできちんと謝って、締切の存在をオープンにできることは、成長したというべきだろう。
「ふーん。なんでしめきりが近くなると、きげんがわるくなるんだ?」
「なんでだろうな。イヤなもんだよ。宿題もいっしょだよ。今日までにやらなきゃいけないってのは、イヤだろう?」
「ふーん。そんなにイヤなのに、なんでやめないんだ?」
「なんでだろう。約束しちゃったからかな。約束破るのは、イヤだろう?」
「ふーん。やくそくやぶると、どうなるんだ?」
「どうなるんだろう?あいつは約束破るやつだって、思われるんじゃないかな」
「ふーん」
意に介さない息子。
クリティカルなところを突かれて、毒気が抜ける。
自作自演。
いつもの言葉が、脳裏に浮かぶ。
一人で締切を決めて、一人で踊って、一人でブースカ言っている。
完全なる、自作自演だ。
じゃあ、やめりゃいいのに。
傍から見たら、そう見えるだろう。
それを割り切ってやめることができたら、そもそも苦労しないだろう。
すべての悩みと一緒だ。
悩むのをやめられないから、悩んでいる。
簡単に割り切れるのなら、誰も苦労なんかしない。
そんなにイヤなのに、なんでやめないんだろう?
ほんとうに好きなら、イヤイヤもせずに、楽しくて楽しくて仕方がないのだろうか。
約束で自分を縛っているのだとしたら、自分いじめの一種ではないのか。
好きって、なんだろう。
夢中になるって、なんだろう。
ぐるんぐるんと、頭の中が回りだす。
いかんいかん、そんなことを考える前に、今日の締め切りだ。
そう思いながら、ニンテンドーDSを開いてテトリスを始めている自分に気づく。
いかんいかんと自戒しながら、DSを閉じたその手で、今度は鬼滅の刃の15巻を手に取っている。
うむむ…かくも締切とは、向き合うのが難しいものよ。
約束をした相手への犠牲もあるだろう。
これをしなければ、自分の価値はないという思い込みもあるだろう。
窮屈さがないと、尻に火が点かないのだろう。
それは、全て正しい。
そうだとも。
けれど、それも含めて、いまの自分なのだ。
それを否定することはない。
つべこべ難しいことは考えず、まずは目の前の締切を乗り切ることだ。
話しは、そこからだ。