大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

締切は、いまの自分を正確に映し出してくれる。

締切について、ここのところ考えている。

締切という名の、魔法の杖かつ地獄からの使者。 - 大嵜直人のブログ

↑こちらの記事で、締切が持つ力と、それに追われる悩みについて書いた。

締切がなければ、なかなか形にすることは難しい。
けれど、締切がもう少し伸びれば…とは、いつも考えてしまう。

こうして書いている毎日のブログもそうだし、依頼された原稿などもそうだ。

もう少し、時間があったらいいのに…
よく、そんな感情を抱く。

けれど、もう少し時間があったら、どうなるんだろう。
納期が延びたら、何ができるのだろう。何が変わるのだろう。
そんなことを、考えてみる。

もっと、いい原稿が書けたのだろうか?
もっと、人のこころに響く文章を書けたのだろうか?
自分の満足のいく出来の原稿を納品できたのだろうか?

非常に残念ながら、それらの答えはすべて「No」であるように思う。

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結局のところ、いまこの目の前に映るものが、真実なのだろう。
その目の前の自分を外して、何か理想的な自分というものは、おそらくあり得ない。
それを受け入れることは、大変な勇気が要る。

自分の力は、こんなものじゃない。
もっと、できるはず。
もっと、やれるはず。

自分の内から湧き上がる、そうした声と向き合うのは、苦しいものだ。
その声はプライド、とも言えるかもしれない。
あるいは、今まで守ってきた、古い自己イメージと言えるのかもしれない。

それを相手に自問自答することは、苦しい。

ほんとうにそうか?
じゃあ、どれくらいあったら、もっといい原稿が書けるんだい?
1日か?無理そうか?
それなら、2日か?3日か?…1週間か?

その問いに明確に答えることは、さらに難しい。

その時間をもらって、いま以上のものが書けなかったら、目も当てられないからだ。

1週間でだめなら、1か月か?
…じゃあ、1年だったらどうなんだ?
それとも、5年、いや10年かい?

そこに答えはない。

結局のところ、時間の有る無しではないんだ。

ただ、いまが最善最適な締切だったと気づく。

ある締切があったとして、その締切までの時間、忙しさ、そのときの自分の状態、能力、それらも全部含めて、その締切なのだ。
「もし〇〇だったら」という仮定は、想像してもいいかもしれないが、決して実現することはない。

空想の中に、逃げないことだ。

いまのこの自分こそが、いま目の前にある原稿こそが、すべてだ。
それは卑下することでも、否定することでもない。

そこに映し出されたいまの自分は、それ以上もそれ以下でもない。
いまの自分が、それなのだ。

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それは、締切だけの話だろうか。

いや、それは生きる上でのすべての諸々と、同じ構造をしているような気がする。

もっと容姿がよかったら。
こんな田舎じゃない場所で育っていたら。
もっと才能があったら。
違う親のもとに生まれていたら。

そういった想いを抱くことは、いたって自然なのだけれども。
そこで止まっていたら、いつまでも堂々巡りだ。

締切を、今日この日と言い換えてみよう。
今日の自分は、何も欠けているものなどないし、ただそれだけで完璧な存在だ。
それ以上も、それ以下もない。
ただ、それを受け容れるのみ。

そこに、もっと素晴らしい仮の自分など、存在しない。

けれど、また次の締切になったら、明日になったら、それはまた変わっていく。
もっと、素晴らしい存在になれるかもしれない。

締切が延びれば、素晴らしい原稿が書けるのではない。
未だ見ぬいつかが来れば、理想の自分になるのではない。

いまの目の前の原稿が、いまこの時の自分が、100点満点なのだろう。
その偉大さ、素晴らしさ、大きさを、才能を受け入れよう。

話しは、きっとそこからだ。