「ぼくが一番したいのは、なにもしないことだ」
A.A.ミルンの「くまのプーさん」の童話の最後、「プー横町にたった家」で、クリストファー・ロビンはそう言う。
学校とやらに通うことになったロビンは、魔法の森でプーさんやラビット、いろんな動物たちと無邪気に遊んだ時代に終わりを告げようとする。
そこでは、「王さま」や「因数」や「ヨーロッパ」について学び、自分の力で何かを成し遂げたり、あるいは何かに挑戦したりすることを学ぶらしい。
勘違いから生まれた空想の動物を追いかけたり、笹で作った舟を小川に浮かべて遊んだりすることは、もうない。
大きくなるということは、何もしないではいられなくなることを、ロビンは知っていた。
何もしないでは、いられない。
人は成長するにしたがって、何かをしなければいけないと思い込む。
それは一日の中の時間的なことでもあるし、人間関係や社会的な立場、役割だったりもする。
上司であったり、いい人であったり、期待を裏切らない人であったり、母親であったり、やさしい人であったり。
何かをしなければいけないし、何かでなければいけない。
人は大きくなるにしたがって、空白を怖れるようになる。
時に、神社を訪れるのは、何もしないことをしに行っているのかもしれない。
熱田さんの参道を歩いていて、ふと、そんなことを思った。
いや、何もしないわけではない。
参拝はするのだ。祈りは、捧げるのだ。
けれど、それはどこか空白に似ている。
鳥居をくぐり、参道を歩き、頭を下げ、手を合わせる。
何もしないわけではない。
老若男女、誰もが同じように頭を下げる。
そのとき、人は誰にもならなくてもいいし、誰かにならなくてもいい。
ただ、その時間が、心地いい。
「ぼくが一番したいことは、何もしないことだ」
と話すロビンに対して、「どうやって何もしないの?」とプーはしばらく考えてから 尋ねる。
「そうだね、ちょっとそれをしに出かけようとしているときに誰かが、『何をするの、クリストファー・ロビン?』と声をかけて、『いや、べつに何も。』と言って、それをしに行く。」
「ああ、分かった。」
「今ぼくたちがしていることが、『それ』みたいな感じだよ。」
「ああ、分かった。ただ出かけていって、聞こえないものに耳を傾けて、煩わせないということだね。」
「ああ、プー。」
ミルンの童話のこの場面が、たまらなく好きだ。
人生の上で、とてもたいせつなことが、書かれているような気がするのだ。
また、熱田さんを訪れようと思う。