練習で出来ないことは、試合でもできない。
かつて、部活でサッカーをしていたころ、顧問の先生がよく言っていた気がする。
それは、そうだ。練習でシュートを決められない人間が、試合になると急にバシバシと点を取れるわけはないし、練習で打てない人間が、いきなり試合に出てホームランが打てるわけもない。
この言葉の意味するところは、「だから、練習しなさい」というほどの意味なのだが、最近つとにもう一つ裏の意味を考えている。
それは、「だから、あきらめなさい」という意味にも取れる。
あきらめる、とは悪い意味でも何でもない。ただ、ありのままの姿を、そのまま受け入れる、明からしめる、というほどの意味だ。
そうした後に残るのは、いまできることをする、という単純な結論になる。
社会人として働き始めたころ、やはり働き始めは肩に力が入って疲れるものだ。
それは、新しい環境や、新しい場所に移ったときも、そうなるものだ。
一生懸命やることはもちろん大切だ。
けれどそれとは別に、自分の範疇を知らずに、それを越えて何かをしようとするときに、人は無力感を覚え、疲労を感じるのだろうと思う。
自分に求められていることは、何なのか。
自分がいまできることは、何なのか。
それは、どれくらいの時間と労力をかけたらできることなのか。
そういったことが分からないから、新しい環境は疲れるし、肩に力が入ってしまうのだろう。
それを解いてくれるのは、ひとえに経験と呼べるものかもしれない。
一通りの仕事の流れを知り、自分の得意・不得意を知り、周りの人の得意・不得意を知り、さらに自分の状態と、そのときに出せるベストを知っていく。
それは、やってみないと分からないことばかりだ。
そう考えていくと、原理的に失敗というものは存在しない。
こうしたら、うまくいかなかった。うっかりしたミスで、こんな大きな穴を空けてしまった。想像した状況と変わってしまい、できると思っていたことが、できなかった。
それらは、すべてかけがえのない財産になる。
成功した経験のある仕事よりも、失敗した経験のある仕事の方が、後輩に教えやすかったりするのは、そのせいだ。
故・野村克也監督がよく引用されていた、平戸藩藩主・松浦清の言葉「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」とは、まさにその通りだ。
新しい仕事を始めるとき。
新しいクライアントから依頼を受けるとき。
やはり、肩に力が入って、プレッシャーを感じるものだ。なんとかうまく、この仕事をしてやろう、と。あるいは、その仕事自体が怖くなったりすることもあるだろう。期待に応えられるだろうか、と。
仕事をうまくやりたい、期待に応えたいという想いは、純粋なものもあれば、悪く思われたくないという他人軸も入ってくるだろう。
真摯に仕事に向き合うのは、もちろんのことだ。
けれど、必要以上に自分にプレッシャーをかけたところで、いい仕事ができるとは限らない。練習で出来ないことは、何とやら、だからだ。
だから、諦めるのだ。
それは、決して悪い意味ではない。
「いまの」自分のベストを尽くすこと以上に、できることなど、何もない。
結局、出てくるもの、アウトプットされるものは、いつも正しい。
頑張ったから今回だけうまくいくとか、サボったからこの一回だけうまくいかないとか、そういったことはない。ただ、自分がそのまま出るだけだ。
だから、諦めるのだ。
無理に取り繕うことを。
飾ろうとすることを。
誰かになろうとすることを。
書けば、いまの自分がそのままに出るだけだ。
その仕事には、自分が映し出されるだけだ。
だから、うまくいかないと卑屈になることもない。
いままでの自分の歩いてきた道程を、信じよう。
だから、うまくいくのだ。
もしたとえ、望んだ結果が出なかったとしても。
その結果がどうであれ、前に出た結果として受け止めるだけだ。
いまの、自分を知ることができるだけだから。
いま、できることしかできない。
いま、できることをするだけいい。