さて、断酒して967日目である。
2年と8か月弱。長いようで、それでいて短いようで。
断酒を始めたのは、2018年の秋だった。何度かここでも書いたような記憶があるが、立冬の近づいた11月初旬、小雨の降る近所の橋の上で、それを決めた。
断酒を初めて、少し経ったころ。夜が、長いことに気づいた。
それまで、お酒を飲んでいた時は感じなかったことだった。お酒を飲んでいた時間が、ぽっかりと空いたのだから、当然と言えば当然だ。
お酒を飲みながら、音楽を聴いたり、動画を見たり、本を読んだりといったことをしていたような気がするが、なぜかお酒がなくなってみると、そうしたことだけをしようとは思わなくなった。不思議なものだ。
ぽっかりと空いた夜の時間は、どこか空虚で、私のコアな感情の一つである寂しさを刺激したりもした。それまで、お酒で散らしたり、凍らせていた寂しさが、妙に生々しい形で、そこにデンと居座っていたわけだ。
けれど、それも日が経つごとに慣れていったような気がする。
おやおや、そんなところにずっといたのですね。
…そうですか、ずっといたのですか、失礼しました。
…いえいえ、こちらも慣れないものですが、ひとつ、よろしくお願いいたします。
寂しいときは、誰かとコミュニケーションを取るのもいいが、寝るのも一つの解決方法だった。寝てしまえば、朝がくる。朝がくれば、割と多くの感情がリセットされる。眠りというのは、偉大なのだ。
そして日付が変われば、否が応でもやること、やらなきゃいけないことも、出てくる。それがいいか悪いかは別として、何かをしているときに、寂しさを感じることは難しい。
納期に追われて仕事をしているとき、ランニングをしているとき、あわてて夕飯をつくっているとき、寂しさを感じることは難しい。空白、空虚、手持ち無沙汰、そんなときに、寂しさはそっと顔を出す。
もちろん、他のすべての感情と同様に、それを感じること自体は、悪いことでも何でもないのだが。それでも、寂しさという感情は、そうした性質があるのだろう。
それはともかくとして、とりあえず断酒を始めた当初は、夜の長さに驚いたものだった。そして、その静かな時間は、寂しさと向き合う恩恵を与えてくれたように思う。
それが、いまはどうだろう。
ばたばたと、何やらかんやらに、手を動かしている。
文章を書くことや、カウンセラーとしての勉強のことや準備のこと、何やらかんやら。
お酒に費やしていた時間がなくなって、ぽっかりと空いたから、それを始めたのか。
いや、もう少し正確に表現するなら、お酒に寂しさの面倒を見てもらっていたが、ようやくそれが必要なくなったから、卒業したのか。
それとも、反対から見れば、いろんな何やらかんやらをしたかったから、お酒を無意識的に辞めたのか。
おそらくは、そのどちらも正しいのだろう。
原因と結果なんて、見方を変えれば同じコインの裏返しだ。
そう考えると、お酒は私の寂しさというコアな感情、そしてライフワークと、非常に密接に結びついていたともいえる。
慢性的な問題を引き起こすほどのコアな感情は、その人にとってのライフワークと結びつく可能性が高い。ずっと抱えてきた問題とは、それだけ闇が深いのだが、それだけに逆から見ればあまりにも自然に、そして息を吐くように誰かに与えられるものだからだ。
もし仮に、私の寂しさとライフワークがコインの裏表だとしたら、お酒はそれを接着剤のような役割を果たしていたのではないか。
そんなことを、想うのだ。
もし、そうだとしたら。
お酒には、感謝しかないなと思う。
もしかしたら、この先、私のなかの寂しさとライフワークの関係性が変わっていったら。
そのときは、またお酒との関係も変わるのだろうか。
ひょっとしたら、断酒をやめて、おいしいお酒を飲んでいるときが来るのかもしれないし、来ないのかもしれない。
それは、ただ流されるように、お任せしよう。
断酒を決めたときのように、自然に何かが訪れるはずだから。