今日は、半夏生(はんげしょう)です。
七十二侯の一節であるとともに、日本の雑節でもあり、梅雨真っただ中でよく大雨になるころです。
半夏とは植物の名前で、別名カラスビャクとも呼ばれ、漢方薬にもなるそうです。
昔から農家では、この日までに田植えや畑仕事を終わらせる目安とされてきました。
私も実家に暮らしていたころ、「ハンゲショー」という言葉を、大人たちがよく話しているのを聞いたような記憶があり、子ども心にその語感を不思議に思っていました。
実家の周りには田んぼや畑がいたるところにあり、農家の歳時記や習慣が、まだまだ残っていたように思います。
「冠婚葬祭は、農家の休日」。
そんな言葉も、思い出します。
田んぼや畑など、生きものを相手にしている農家は、なかなか365日休めないものだった。その農家が合法的に休めるのが、冠婚葬祭だったと聞きます。
だから、結婚も法要も、ごちそうとお酒が出る。
冠婚葬祭だから、という大義名分があれば、日ごろの労をねぎらって休むこともできたのかもしれません。
その話の真偽のほどは分かりませんが、それでも「言い訳をつくってあげる」というのは、一つたいせつな知恵のように思います。
それは、相手に受け取りやすい形で与える、と言い換えられるのかもしれません。
たとえば、周りの誰かが疲れているように見えたとして。
ストレートに「少し手伝うから、ちゃんと休んでね」と言っても、なかなか休めんでもらえないものです。
仕事の関係でも、パートナーシップでも、友人関係でも、そういった場面にはよく出くわすものです。
相手は自分が疲れていないと思っていたり、周囲の眼を気にしていたり、あるいは手伝ってもらうことに申し訳なさを感じてしまったりする。
我が身に置き換えて考えてみると、それも仕方ないかな、とも思うのですが、それでも好意を受け取ってもらえないのは、なかなかに悲しいものです。
そこで無理矢理に「休まないとダメだ」と自分の言い分を強硬に主張すると、お互いの正しさの争いになってしまいます。
もしそれで仮に相手が休めたとしても、相手はゆっくり休めるでしょうか。
あるいは、「そんな助けなんか必要ない」と相手に強硬に突っぱねられたら、声がけしなければよかったと悲しくなってしまうでしょう。
どちらにしても、最初に望んだ結果は生まれなさそうです。
最初は、相手を想う気持ちからの行動だったはずなのに。
せっかく相手を気遣い、相手の想ってした行動が、自分も相手を傷つけてしまう。
それは、とても悲しいものです。
もう二度とするもんか。
そう考えて、次に同じシチュエーションがあったとしても、躊躇してしまうようになります。
誰かが疲れていることに気づける。
それは、その人の素晴らしい才能でありやさしさであるはずなのに。
そのあたたかい、やさしい部分に蓋をするのは、苦しいものです。
そんなときの一つの方法として、「言い訳をつくってあげる」ということが挙げられます。
人は、無条件で助けられることに、申し訳なさを持ってしまうものです。
本来は、そんな申し訳なさを持たずに、遠慮なく差し出された愛を受け取ればいいのですが、受け取りやすい形で愛を差し出してあげることは、とても有効かもしれません。
「あなたを助けたいんだ」
「あなたの力になりたいんだ」
「あなたを愛したいんだ」
その気持ちは、嘘ではないと思います。
それを、相手が受け取りやすい形に変換してあげること。
一つの鍵は、「わたしのために」ではないでしょうか。
「あなたがそうすることが、わたしにもメリットがあるから、受け取ってくれませんか」、というように。
与えると受け取るは、両方同時に起こります。与えながら、受け取る。受け取りながら、与える。そんなことができたら、とても循環しそうです。
こう書くと難しく聞こえますが、ほんの少しの変換で大丈夫です。
「こっちの仕事が月末忙しくなるから、手伝ってほしいんだ。代わりにといっちゃあ何だけど、いまは手が空いてるから、その仕事を手伝わせてくれないかな」
「平日じゃないと、なかなか予約が取れないお店に一緒に行きたいから、たまには休みを取れないかな」
相手のために、何かをしてあげたいと思った。
その想いは、とても尊く、愛に満ちたもののはず。
その想いを届けるのに、ほんの少しだけ、伝え方をほんの少しの言い訳をつくってあげてはいかがでしょうか。
さて、半夏生の時期は、気温も上がる中で長雨もあり、身体に疲れが出やすい時期でもあります。
そのためか、半夏生の時期は農作業を休み、身体をいたわる習慣があったと聞きます。
自分に対しても、少し言い訳をつくってあげてはいかがでしょうか。
半夏生だから。
そんな言い訳で、ゆっくり休んでもいいのかもしれません。