朝は、梅雨明けしたかのような晴れ間が、見えていました。
けれど、みるみるうちに雲が厚くなり、また叩きつけるような雨が降り注いできました。
少しするとまた止んで、昼前には晴れ間が見えてきました。しかし、昼過ぎからまた雲が広がり、激しい雨が滂沱たる音を立てていました。
どうにも不安定なその空模様は、梅雨の終わりを惜しむかのようでした。
梅雨の終わりには、強い雨が降る。
そんなことが、思い出されます。
降りしきったあと、濡れた地面を眺めながら、この水はどこから来たのだろうと考えていました。
降りしきった雨は、やがて地に浸み込み。
それはどこかで浸みだし、流れをつくり。
その流れは揺蕩い、別れ、合わさり。
いつしか大きな流れになり、大海へと。
そこで温められた海水は、また雲へと形を変えて。
循環し、円環を描く、水。
水は、すべてを知っている。
水だけが、すべてを知っている。
そうだとしたら、この雨に濡れることも、なにかに触れることなのかもしれません。
遠く離れたどこかの、水だったり。
追憶の彼方からの、水であったり。
あるいは、いまここには存在しない故人の、何かだったり。
そう思うと、流れゆく雨水がどこかいとおしく、それでいてはかなく思えてもくるようです。
それは、もう過ぎ行く梅雨を惜しむことと、どこか似ているのかもしれません。
なにかを惜しいと感じること。
それは、時にかなしみであったり、さびしさであったり。
そう感じることは、どこかいまを生きていないような、過去に囚われているようにも感じてしまうかもしれませんが。
時に、そんな時間があってもいいように思います。
それもまた、過ぎ行くものへの愛の表現の、一つなのでしょうから。
空の色が、もう夏の色のようです。
梅雨明けも、もうすぐでしょうか。