あっ
と思った刹那、黒い物体はジジジ…と微かな音を残して、明後日の方向へ飛び立ってしまった。
失敗である。
さすがに真夏日の午後2時過ぎ、外にいるだけでうだるような熱気のセミ取りは、頭がぼんやりとしてくる。
しかも、今日は午前中に続いてのダブルヘッダーだ。
またドヤされると思い、そっと後ろを振り向く。
しかし息子は、「あー、ざんねん。つぎにいくぞ」と未来を見据えて足を踏み出していた。
これはどうしたことか。
訝しがりながら、私はその後ろをついていく。
「ごぜんちゅうよりも、よく鳴いてるな。オスはごごからかつどうするのかな」
こういう思考は、理系のそれのような気がするのだが、どうだろう。
「あぁ、どうなんだろうな」と気のない返事をしながら、私は桜並木を見上げながら歩く。
「声が聞こえなくても、おメスがいるかもしれないから、ちゃんと見るんだぞ」
あぁ、わかってるよ。
そう返事をしながら、幼いころに、私もまったく同じことを考えていたことを思い出す。
そのころは、いつも一人でセミ取りをしていたものだった。
「あ、また、けいたいで花とかさつえいしてサボってたら、ダメだぞ」
厳しいお達しを受けながら、そろそろ首筋の裏がいたくなってきた私は、前屈をして身体をほぐす。
それにしても、なかなか低い位置にいないものだ。
もう少しだけ、警戒感のゆるいセミがいるといいのだが。
記憶の中の息子は、セミを取り逃がすと癇癪を起こして私を責めていた。
その記憶とのギャップに、少し戸惑いながら、木漏れ日を見上げる。
成長したのだろう。
そりゃあ、一年も経てば、そうだろう。
どっちが?
そりゃあ、息子…ではなく、私の方なのだろう。
セミ取りに出かけたら、セミを取らないといけない。
目に見える結果を出さないと、息子は喜ばないだろう。
セミが取れなかったら、という怖れと、無力感と。
いつも、それがないまぜになっていたような気がする。
「どこへ行くか」「なにをするか」をいつも考えていたように思う。
どこへ行ったら、息子は喜ぶのだろう、と。
なにをしたら、息子は喜ぶのだろう、と。
そうしておいて、そのシチュエーションを息子に与えて、自分が望んだ反応が返ってこないと、勝手に不機嫌になっていたものだ。
苦い、思い出がいくつもある。
なにをするか、どこへいくか、なんてさして重要ではないのかもしれない。
ただ、子どもは親といる時間を、欲しているだけなのだ。
そう思えるようになったときには、すでに多くの時間が失われていた。
小さな小さな手のひらをした「あの」息子と一緒にいられるのは、「あの」瞬間だけだったのに。
その時間は、もう二度と戻らない。
子育てなんて、後悔ばかりだ。
足りないこと、できなかったこと、してあげられなかったこと。
後から後から、分かることばかりだし、気づくことばかりだ。
されど、時は不可逆であり、もう二度と戻ることはない。
ようやく見つけた、低い位置にいたアブラゼミ。
今度は一発で捕まえることができた。
ジジジジジ、とタモの中で暴れる物体。
「おとう、つかまえて」
息子に代わって、そっと羽根の部分を持って、タモから出す。
指の間で激しく動き、腹を震わせ鳴くアブラゼミ。
その鼓動は、いのちのビートだ。
ずいぶんと、なつかしい記憶の中の、手触りだった。
しげしげと、そのアブラゼミの身体を観察した息子は、もう空に放して、という。
せっかく捕まえたのに、いいの?と聞くと、いいの、と。
やさしく空へそのセミを放ると、夏色の空をジグザグに飛んで行った。
古い記憶の中の私も、そうだった。
捕まえたセミや昆虫を、しげしげとながめて、またリリースしていた。
その身体のフォルム、色、動きの美しさを、近くで眺めていたものだった。
「つぎのセミをつかまえにいくぞ。クマゼミがとりたいな」
せっかくつかまえて、リリースして、またつかまえる。
なんと不毛で、なんとぜいたくな時間か。
それにしても、猛暑日の午後は暑い。
そろそろ水分補給をしようか、と言いながら、私は後ろをついていく。
完璧な親などいないし、いつもいつも、子どもに親にさせてもらうばかりだ。
後悔など、無意味で何も生まないのかもしれない。
けれど、多くの親が、その感覚を持っているのではないかとも思う。
それは、私の親もそうだったのだろうか。
川の向こう側で、クマゼミが大きく鳴き始めたようだった。
「つぎはあっちだぞ」
視線をそちらに向けながら、息子はそう言う。
全身の汗腺が開いたように汗だくになりながらも、とりあえず行ってみようか、と答える。
どれだけ後悔があろうとも、これだけは思っているし、信じていたい。
きみがむすこで、よかった
と。
そして、
おとうさんとおかあさんのむすこでよかった
と。
いつか、きみも。
そう思うことがあるのかな。