今日は、一宮市を訪れる予定の日でしたので、真清田神社を訪れました。
自宅を出て高速道路を走っていると、にわかに空が暗くなり、ぽつりぽつりと雨粒がフロントガラスを叩いていました。
どうも、ここのところ外出すると、曇りだったり雨が降ったりするようです。
そういえば天気予報を見ずに出たので、傘を持ってくるのを忘れたことに気付き、さてどうしたものかと思案しながら、ハンドルを切ります。
いわゆる「5・10日」でもない月中の平日だったですが、高速道路はいつになく混んでいて、出口でずいぶんと渋滞していました。
何とか渋滞を抜け出ると、かろうじて雨はおさまったようでした。
下道に降りても混んでいましたが、ゆるゆると進んで、真清田神社の駐車場にたどりつきました。
この威風堂々とした楼門の姿が好きで、いつも駐車場に停めてから遠回りして、楼門をくぐって境内に入ります。
その脇の桃の木を眺めながら、季節の移ろいを想います。
思えば、昨年の春、初めての緊急事態宣言が出て。
不要不急の外出を控えるように言われる中、要・急な案件でこの一宮市を訪れたものでした。街全体が海の底に沈んだような圧迫感があり、外出することへ罪悪感もあり、行き交う少ない人たちは、どこかそそくさと下を向いていたことを思い出します。
知り合いの飲食店がテイクアウトを始めていたので、それを応援したく、そこにも足を伸ばし。公園で、そのお弁当をいただいていました。足元にはオレンジの花が揺れる、いつもと何も変わらない春なのに。
重苦しい雰囲気の、春の日。おそらく、忘れることはないように思います。
それを思うと、季節は流れるものです。
そして、時の流れはすべてを流し、癒していくようにも思います。
曇天の下の、境内。
静かな時間が、流れていました。
早いもので、もう七五三詣の看板が掲げられていました。
過ぎ去った時と、未だ来ぬ時。その両方を想い、玉砂利の音に耳を傾けていました。
境内の緑にも、点描のような赤が。
それでなくとも、どこか木々の色には夏の生命力はなく、秋の訪いを感じさせます。
それは寂しさとともに、どこか静けさと安らぎを感じさせます。
夏の盛りに覚える、ゆらぎと不安定さ。
秋の訪いは、それとは対照的です。
それは、どこか生と死の対比と、似ているような気もします。
参拝を終えて、少し境内を歩いて回りながら、その秋の空気に浸ってみました。
ぱらぱらと小雨が頭上を濡らしましたが、それもまた、心地よく感じていました。
時に白露、鶺鴒鳴(せきれいなく)。
その小雨は、一歩、また一歩と歩みを進めるような季節のようにも思えました。