昨日の台風による大雨が、すべてを吹き飛ばしたように、晴れた。
9月の晴天は気持ちがいいものだが、台風一過のそれとなれば、なおさらなのかもしれない。
意外に道中は混んでいたけれど、名古屋駅を通り過ぎると車は少なくなった。
庄内川にかかる橋を渡ると、雄大な伊吹山の連邦が視界に入ってくる。その山頂には、微かに白い冠雪が見える。かつては弘法大使さまも歩いたという街道を通り、車を走らせる。
お盆は時間が取れず行けなかった、墓参り。
彼岸入り前だが、よく晴れたので行くことにした。
変わらない風景と、変わった風景と。いつも、この街道を通るときは、記憶の中のそれとの間違い探しを、無意識にしているようだ。
音楽もラジオもなしで。一人、車を走らせたかった。
変わらない駅前の花屋で、墓花を買う。
特徴的な紫の色が、どこか秋を感じさせた。
境内が先客でいっぱいだったので、近くの大きな公園の駐車場に停めた。
まだ、ツクツクボウシが鳴いていた。
かつて、幼い私はここでセミ取りをした。いつぞやのとき、息子ともここで同じようにセミ取りをした。季節はめぐり、年はめぐる。
足元に、彼岸花が咲いていた。
誰に言われなくとも、時がくれば咲く。妙に、そのけなげさに感心しながら、いつか来た道を歩いた。
朝日に照らされて、どこか神々しさのある彼岸花。
明日から、彼岸入りだ。
菩提寺に向かい、歩いていく。9月半ばだが、今日の日差しは、少し夏を思い出させる強めの日差しだった。ようやく着いた境内でも、ツクツクボウシが鳴いていた。
彼岸入り前だからか、境内には私の他に誰もいなかった。
静かな、時間が流れている。
手桶に水を汲み、墓を磨いて花を活ける。
墓参りに来たのは、もちろん時節柄もあるのだが、もう一つ目的があった。
初めての執筆した著作が、世に出るのを報告しに来た。
導かれるように、いつしかここまできた。
私も、いつしか親になり。
子どもが何かを成し遂げようと、そうでなくても。
ただ、生まれてきてくれたことだけで、彼らを愛し、そして感謝していることは変わらないのだが。
それでも、何がしか成し遂げることがあったとしたら、親のおかげだと思うし、それを見せたかったとも思う。
精神的に自立しようとも、いくつになっても、子どもは子どもなのかもしれない。
それで、いいのだとも思う。
手を合わせ、しばし目を閉じる。
わたしを生んでくれて、ありがとう。
ただ、そのことばしか、思い浮かばなかった。
ツクツクボウシの鳴き声は、いつしか鈴虫の音色に変わっていた。
車への帰り道、スタスタと歩くネコに連れていかれて、歩いていると。
何度も通っていたはずなのに、訪れたことのない神社に着いた。
生け垣の参道を通って行くと、鳥居の下でネコはちょこんと座って待っていた。
まあ、ちょっと寄っていきなよ。
そういわれるがままに、手を合わせた。
何度も通っているはずの道に、不思議な境内の空気。
過ぎゆく季節を惜しむツクツクボウシの声と、それをよろこぶ鈴虫の音色が、また聞こえていた。
振り返ると、ネコはどこかへ行ってしまったようだ。
見上げれば、抜けるような秋の空が広がっていた。
また、彼岸花を見て帰ろうと私は思った。