2018年の11月3日。
立冬も近づいた肌寒い日の午後、近所の川の橋の上でした。
霧のような小雨が、パーカーを濡らしていました。
息子と娘が川に棲むカメにエサをあげたいと言うので、ついてきたように覚えています。家から持ってきたパンをちぎっては、息子と娘はぽいぽいとカメにエサをやっていました。
ぼんやりと頭を濡らす雨に打たれていた私は、ふと、声を聴きました。
「お酒をやめてみたら、どうなるだろう」
それは、あまりにも唐突で、バカらしい考えでした。
飲み会が好きで、その前の週にもずいぶんと飲んでいたくらいでしたから。
お酒は好きだ。お酒の場が好きだ。けれど、二日酔いは嫌いだ。あの、この世の終わりを迎えたような感じは嫌いだ。でも、お酒も飲み会も好きだ。
お酒をめぐるメリット、デメリットがぐるぐると頭をめぐっていました。
ふと浮かんだその声に従う理由は無いのだけれど。
けれど、その声に抗う理由もまた、無いように思えました。
なんとなく、私はその声に従ってみることにしました。
コインを投げて決めたような、そんな断酒の始まりでした。
だから、それ以来幾度となく受けた、「なぜお酒をやめたのですか?」という問いには、もっともらしい理由では答えられるのです。
「ついつい深酒してしまうから」、「二日酔いがひどくて」、「身体を大切にするため」…もっともらしい理由は、いくつも挙げることができます。
けれど、最後の最後のところは、「自分でもよく分からないんです、なんとなくです」というのが、最も自分の中ではしっくりくる答えなのです。
それを言うと、「何となくで、やめないでしょう」と訝しがられるのですが、実際にはそうなのです。
そんな「決めた」とも言えないような始まりでしたが、私はお酒を断ちました。
3年前のことです。
それから、3年が経ちました。
石の上にも、何とやらといわれる年月が経ったようです。
お酒を断つにあたって、このブログで公表しました。
それも、なんとなくそうした方がいいのでは、という感覚からです。
はじめのうちは、お酒を飲んでいた時間がぽっかりと空いて、手持無沙汰になって暇になったのをよく覚えています。
そして、会食に行ったときに「お酒をやめてるんです」という説明をして飲まないことに、罪悪感を感じてみたりもしました。
懐かしいものです。
けれど、そうしたことを続けていくうちに、いつしか一緒に断酒にチャレンジする仲間も現れました。
その一人である岩橋隆盛さんは、断酒をして続けていくうちに、数年ぶりにキャンプに出掛けたことを先日のブログに書いておられました。
なんだかんだ言いながらも続けられたのは、こうした同志がいたからこそだと思います。ありがたい限りです。
不思議な感覚のですが。
お酒を辞めたから、いまの私があるのは事実なのでしょうが、それが絶対必要だったかといわれると、そうでもないように感じます。
お酒を飲んでいたら、お酒の素晴らしさ、お酒の味と美味しい料理の組み合わせに酔える、素晴らしい人生だったのでしょう。
それはそれで、うらやましいとも感じるのも正直なところです。
けれど、私はそれを選ばなかった。
ただ、それだけのことのように感じます。
それは、お酒に限った話ではないのかもしれません。
選ばなかった無限の可能性と、いまここにいる私という、ただ一つの事実。
その選ばなかった可能性の方が優れているとも、劣っているとも考えなくてもいいように感じます。
その選ばなかった可能性に、どんな光り輝くものがあったとしても。
ただ、私がここにいることの価値に、何の影響もないと思うのです。
お酒を断っても、お酒を飲んでいても。
私の素晴らしい価値は、変わらない。
ただ、それを受け取り続けようとするだけです。
3年前、なんとなく決めた断酒。
おそらくは、人生における重要な決断であればあるほど、人は「理(ことわり)」では決めないように感じます。
理があるから決めるのはなく、決めてから、それらしい理を探しに行く。
迷ったときほど、情報を集めて、「理」が多いか少ないかを探しに行くのだけれど、大切な決断ほど、それで決めることができないことが多いように感じます。
「なんか違う」、「なんか好き」といった感情、あるいは直感と呼ばれるようなものが、「理」で選ぶことを拒みます。
頭では分かっているんだけど…でもどうしても…
時にそんな想いを経験をすることは、誰にでもあるのでしょう。
その反対に、
なんでこんなことしたいと思ったんだろう?
と思うこともまた、生きる中ではあるのでしょう。
「お酒をやめてみたら、どうなるだろう」
3年前の私にとって、バカげたその直感は、多くのものをもたらしてくれました。
これからも続けるとは思いますが、さりとて、明日「お酒を飲んでみたら、どうなるだろう?」という直感が芽生えないとも限りません。
どちらでも、大丈夫であると思うこと。
どちらを選んでも、大丈夫であると思うこと。
それで、いいのだと思います。