以前よりご報告させて頂いておりましたが、今年の2月から心理カウンセラー/講師/ベストセラー作家の根本裕幸氏のお弟子さん講座(カウンセラー養成講座)に通わせて頂いておりました。
半年間のカリキュラムを終え、去る8月15日の講座をもって卒業することができました。
無事に修了、卒業することができましたのも、有形無形の応援、ご支援をいただいたおかげだと思います。重ねて御礼申しあげます。ありがとうございました。
…と、8月のお盆の頃の話を、この11月も末になって、なぜ?と思われるかもしれませんが、のんびり屋さんなものですから、仕方ないのです。
のんびり屋さんとは聞こえがいいですが、要は頑固なんですよね。
自分で整理して心底納得しないと、動かないというか。
「ほんっっっっっとに、ガンコだよねぇ…」と周りからよく言われて、「そんなことない!」と抵抗しておりましたが、最近ようやくそれを認め、諦めています笑
もっと軽やかに動けたらいいなぁ、とも思いますし、「なんでも始めてみよう、走りながら修正しよう!」が美徳の現代にとっては、非常に不利な資質だとは分かっているのですが。
けれど、その時間を省いてしまうと、どこか自分のなかで空回りするのですね。
なので、その頑固さを直そうとせず、もうそのままでいようと思います。
というわけで、3ヶ月半の熟成?を経て、ようやく卒業と今後についてのご報告をさせて頂ければと思います。
1.お弟子さん制度で得たもの
まずは、半年間のお弟子さん制度を振り返りながら、私が得た3つのことについて書いていこうと思います。
カウンセラー活動というより、これから生きる上で財産となる、3つのことです。
愛から見るカウンセリング
講座の中で、心理学の知識や、カウンセリングの技法、マインドセットなども学んできたのですが、やはり最も大きいのは、この「愛から見るカウンセリング」だと思います。
「なぜ、この人はこんなことを言うのだろう。こんな行動をするのだろう」
虐待をする親の中にも、モラハラや浮気をする人の中にも、自分を傷つけて止まない人にも。
あるいは、自分の母親を殺した犯人の中にだって。
形は違えど、愛のかけらを見つけることができます。
それは、新月のように姿が見えない闇の中にも、かならず「それ」はあり、時が違えば満月として輝くようなものかもしれません。ただ、同じ月です。
時に、ばらばらになってしまった愛のかけらを一緒に見つけ、その美しさをともに喜び、それを集め、形を整え、自分の偉大さに気付いてもらったり、あるいは大切な方にその愛を送ったり。
いま、私がカウンセリングに対して持っているイメージは、そんなイメージです。
どんな風にひねくれていようと、悪態をつこうと、社会的に許されない行為をしていようとも。
人間の行動原理には、愛しかありません。
一見すると、そうは見えないかもしれないのですが。
すべて、愛があったから。
言葉にすると、10文字にも満たないことですが、一つの真実です。
もちろん、24時間365日、そんな視点を持ち続けることはできないですし、関係性が近くなればなるほど、そんな見方を持つことよりは難しくなります。
けれど、そうした見方が「できる」、ということ。
それを学んだことは、大きな財産です。
もちろん、それはお弟子さん講座の期間だけで、学んだものではありません。
いままで、私と関わってきた多くの人と場所、そして時間があってこそ、実感できたものです。
けれど、お弟子さん講座の時間がなければ、「体感」として得ることができなかったとも思います。
「自分と同じような痛みを持つ誰かを、救いたい」
カウンセラーとしてのマインドの発露は、そんなところから始まります。私も、そうです。
けれど、その行き着く先は、自分を傷つけた相手を許し、癒すことなのかもしれません。
そして、それを突き詰めていくと、傷つけられたと思ったことは自分の思い込みであり、癒す人も癒される人もなく、ただその人その人が「ある」だけなのが、ほんとうのところのようにも思います。
それは、「左の頬を打たれたら、右の頬を差し出しなさい」というイエス様の教えであったり、「人生とは耐え難い苦しみの連続であるが、その中にでも悟り(=愛)を見出すことはできる」というお釈迦様の教えと、重なる部分があるように感じるのです。
少し話が大きくなってしまいました。
けれど、お弟子さん講座の中で学んだ中で、最も重要だと私が感じたのは、カウンセリングの技術でも、心理学の知識でもありません。
傷や痛みからではなく、愛から世界を見ることができるという、一つの人間賛歌といえるものです。
それは、カウンセリングの臨床を1万数千件以上も積んでこられた、根本師匠の「実経験」から語られる言葉だからこそ、説得力を持つものでした。
結局のところ、お弟子さん制度というカウンセラー養成講座を通じて、根本師匠が表現されようとしているのは、そうした人間賛歌なのかもしれません。
それは、多くのアーティストが作品を通じて表現しようとしていることと、根底には同じものが流れているのかもしれません。
かのベートーヴェンが、その生涯最後の交響曲となった第9番で、「詩」と「歌」によって、苦悩を乗り越えて至る、人の喜びを描いたように。
それはともかくとして、この「愛から見るカウンセリング」は、これから私が活動を続けていくにあたっての、一丁目一番地になるものだと思います。
ある、桜の花の下での体験
これは、上の「愛から見る」ことの裏返しなのですが、自分と向き合い、そうした世界の見方を知っていくと、自然とそれを外側の世界に映し出します。
お弟子さん講座を始めて2ヶ月くらい経った、4月頃だったでしょうか。
「怖くて仕方がない。私に与えられるものなんて何もない」
そんな精神状態だったと思います。
何かが変容するとき、多くの場合において、暗く不確かな夜を通ります。
そのころの私は、「なんか苦しい。もう辞めたい。けれど、辞められない」、そんなことを想っていました。
2回目の講座の初日を、所用により休みました。
おそらくそれは、私自身が潜在的に逃げたいと思っており、そうせざるを得ない状況をつくりだしたのでしょう。
「このまますべてなかったことにして、フェードアウトしたら、楽なのかな」
翌日の講座の朝、そんなことを思いながら、自宅の周りを散歩していました。
麗らかな春、近くの川の桜並木の下を、通りました。
そのとき、満開の桜のすべてが、こちらを向いていたように感じたのです。
その桜は、確かに、私に愛を向けていました。
「なぜ、そんなにも。こんな私に」
しばらく、嗚咽が止まりませんでした。
桜の花びらが、風に舞っていました。
それは、ごく個人的な体験で、ここに書くようなことではないかもしれません。
けれど、世界に愛される体験をしたことと、愛から見る視点を学んだことは、おそらくは無関係ではないように思います。
ともに歩く、カウンセラー仲間
とまあ、ウダウダ言いながらも、続けてこられたのは、やはりともに学ぶ仲間の存在が大きかったと思います。
私が学んだお弟子さん講座4期は、全編オンラインでのカリキュラムだったので、なかなか雑談、フリートーク、懇親会といった時間を取ることができませんでした。
それは、オフラインで受講するよりも、親しくなるのに時間や労力がかかり、ある種の困難さがともないました。
それでも、オンラインならではの利点がありました。
北は北海道から、南は九州まで…と思いきや、欧州、東南アジア、豪州、南アメリカ…時差を超えてまで学びたいという、高いモチベーションや志を持った方たちと知り合えたことは、大きな財産です。
実際に一度も会っていなくても、距離がどれだけ離れていても、こうして深くつながることができる体験をさせて頂いたのは、私にとって大きな経験でした。
なればこそ、私がモニターを募集する際に、オンラインのセッションでの募集を抵抗なくできたのは、その恩恵なのだと思います。
もちろん、実際に対面することは、オンラインにはないものが得られます。
けれど、オンラインでも人はじゅうぶんにつながれる。もともとが、つながっているのだから。
卒業して、画面の中でしか会えなかった同期の仲間たちと、これからどこかで会えると思うと、人生の愉しみの一つが増えました。
全編オンラインの4期に参加できて、本当によかったと思います。
2.卒業後の3ヶ月間
そんなこんなのお弟子さん講座でしたが、それを卒業した後、私が何をしていたのか、少し綴ってみたいと思います。
モニター・カウンセリングの募集と実施
お弟子さん制度を卒業する8月から、カウンセリングのモニター様の募集を開始しました。
お弟子さん制度での実習も含めて、今日までに50本ほどのセッションを重ねて参りました。
ご応募いただき、貴重なお時間をいただきました皆様には、この場をお借りして、厚く御礼申しあげます。本当に、ありがとうございました。
初めて、お申し込みをいただいたときの緊張は、忘れることができません。
お申込みをいただいた瞬間、自分でも驚いたのですが、
「あぁ、これで死ねなくなったな」
という心の声が聴こえました。
その瞬間は、「自分以外の代役の効かない仕事」に対する責任感を、背負いすぎているように感じていました。
けれど、振り返ってみると、それだけでもないような気がします。
もちろん、その責任感を背負ってしまうことは多分にあるのですが、世界に与えると決めたことで、自分のなかにある根源的な虚無感、ひいては希死願望が癒されたようにも感じるのです。
このことについては、これからカウンセリングを続けていく中で、ゆっくりと向き合っていきたいと思っています。
話す、聞く、祝う
そのようにして、8月からモニターを続けていくことができたのは、同期の仲間のおかげに他なりません。
カウンセラーとは、孤独になりやすい仕事です。
クライアント様と深く向き合うことは、否応なく、同じ深さで自分自身と向き合わされます。
一人で頑張ろうとしても、原理的に無理だと感じます。
そんな中で、お弟子さん制度の同期の仲間たちと話す、少人数のZoom会に救われました。
いろんな悩みを話したり聞いたり、笑ったりしながら。
最後には、その仲間たちの未来、ビジョンを予祝させていただいたり。
そのおかげで、今日までモニターを続けることができました。
数えてみると、卒業から今日までで30回近く、そんな会を重ねてきたようです。
全編オンラインの恩恵かもしれませんが、講座中よりも、卒業してからの方が同期の仲間にあれやこれやと、お世話になっているようです。
そのような機会を与えてくださった、にじこカウンセラーには、深く感謝しております。
人を巻き込み、周りの人を笑顔にするエネルギーにあふれた、にじこカウンセラー。
本当に、ありがとうございました。
落選とプライドのあいだに
そんな卒業後の日々ですが、一つの大きな出来事がありました。
8月に応募した「優駿エッセイ賞」に落選したことです。
結果が出たのが、10月の下旬だったでしょうか。
これが結構、精神的には効きました。
もともと私は、競争や争うことが嫌いなのですね。
もちろんそれは、一つの資質ではあるのですが、ほんとうのところ、「負けるのが嫌だから、争いに参加しない」という心理もあったのだと思います。
要は、「やればできる子」を装って何もしない方が、傷つかない、というか。
隠しているプライドの鼻っ柱を、折られたくない、というか。
はい、めっちゃカッコ悪いですねぇ…
イヤですねぇ…自分の見たくない部分を書くのは…
それでも、お弟子さん制度で自分と向き合ううちに、応募してみようと思い立ったのです。
結果は、予選すら通らず撃沈でした。
落ちて、いろんなことを考えました。
いろんな痛みがありましたが、私にとって最も痛かったのは、自分の才能が世に認められなかったことよりも、応援してくれた大切な方たちに、いい報告ができなかったことです。
残念だったね、などと、そんなことを言わせたくなかった。
はい。お手本のような、「自立の自立」の極致ですねぇ…お恥ずかしい。
けれど、事実として「落選」を突き付けられて、プライドを折るしかありませんでした。
一番勝負したくなかった土俵は、一番負けたくなかった土俵でした。
足が遅かろうが、車の運転が下手だろうが、ファッションセンスが無かろうが、別に気になりはしませんでした。そんなことは、自分にとっては、どうでもいいことだから。
でも、書くことで負けるのは、自分が最も怖れていたことでした。
その最も負けたくなかった土俵で、完膚なきまでに負けました。
ある日の夕方。
一人運転する車の中で、泣きながら恨み節を叫んでいる時、ふと言われました(誰に?)。
「もっと、謙虚になりなさい」
即答で、「イヤだ!」と叫びました笑
本当にイヤなのですが、それを認めるほか、ありませんでした。
いや、いまでも、認めたくないです笑
けれど、しょうがないんです。
負けです。まったくもって、清々しくないですが、負けです。
負けを認めると、世界に向かって、こう言わざるを得ません。
「こんな私ですが、愛してくれますか」、と。
私は、何をしたいのか
負けるのはイヤです。
それまで隠していたプライドをバキバキに折られることは、痛かったです。
醜い男の嫉妬が噴き出てきたりして、吐き気がするくらい、辟易しました。
これを書くのにも、まだ抵抗があります。
しかしながら、私にとって救いだったのは、「カウンセリング」なるものを知っていた、ということでした。
自分の内面を、大切な方たちに聞いてもらったり、あるいはカウンセリングを受けたりして、少しずつ少しずつ、負けを受け入れていきました。
あるとき、ふとした疑問が湧いてきました。
「なぜ、勝っただの負けただの、こだわるんだろう」
次に浮かんだのは、
「なぜ、書いているんだろう」
誰かにチヤホヤされたい承認欲求のためか?
うん。もちろんそれは、ある。にんげんだもの笑
けれど、応援してくださる、大切な方を喜ばせたかった。
それもまた、一つの真実です。
私が書くことを始めたのも、そうして応援してくれる方がいてくださったからです。
そうだとしたら。
どうしたら、その人は喜んでくれるのだろう。
もちろん、落選したりするのは、残念かもしれないけれど。
書き続けることが、なによりも大事なのではないだろうか。
もし、たった一人でも。
そうやって、自分のことを応援してくださる方がいる中で、書かせていただけるとしたら。
それは、一つの奇跡なんじゃないかな。
そんな、「落選」からの一連の心もようは、カウンセラーとしてのあり方にも、大きな影響を与えてくれました。
「すごい技術や知識を持った、優れたカウンセラーにならないといけない」
私の中に根深く巣食っていた、そんな観念に、一つの反問を抱けるようになったのです。
「じゃあ、なんのためにやっているの?」
「すごいと言われたい」、「いい人に思われたい」、「癒したいと見せかけて、実は自分が癒されたい」とかは、もちろんあります。にんげんだもの笑
けれど先に述べたように、世界に与えたいから、誰かの役に立ちたい、貢献したい、癒し(=ものの見方を変えること)を与えたいから、という動機もまた、真実です。
それを突き詰めていくと、こんなことを思うのです。
もし、その人が癒されるんだったら、私じゃない誰かが癒してくださっても、いいじゃないか。
そう考えると、競争する相手はいなくなります。
すべて似たような志を持った「仲間」、「同志」になります。
私は私のことを、していけばいい。
そう考えると、とても楽なのですね。
クライアントさまに貢献すること、仲間に貢献すること、社会に貢献すること、世界に貢献すること。
本来はそれがしたかったのに、いつしか私は手段と目的を履き違えてしまいがちなようです。
すごいカウンセラーになることも、一つの与える方法ですが、それ以外にも私がその目的のためにできることは、無限にあるはずです。
結局のところ、長く続けるためには、他者貢献の視点が必要になってくるようです。
それは言葉を替えれば、「陰徳を積む」という表現もできるかもしれません。
振り返ってみると、ちゃんと講座の募集要項に書いてあるんですよね。
〇【必須】グループで行動することがほとんどのため、グループに貢献する意欲を持った方
グループでのワークが多数あり、また、お弟子さん制度5期という大きなグループの中で様々な交流が生まれますので、そこでのコミュニケーションが必須になります。そのためグループでの活動に積極的に取り組んで頂ける方が対象となります。その分、かけがえのない仲間ができます。
親の小言と冷酒は、なんとやら…でしょうか。
まあ、言うこと聞かないガンコ者の私なので、仕方ないのです笑
もちろん、まだまだ競争しようとしたり、自分の力を証明しようとしたりします。にんげんだもの。
けれど、その度に「落選」の痛みと、書かせていただく謙虚さに、戻ってきたいと思います。
その視点は、自分が最も負けを認めたくない部分で負けたからこそ、得られたものだったのかもしれません。
3.今後の活動について
長々と書いてしましましたが、卒業後はそんな3ヶ月半を過ごしておりました。
最後に、お弟子さん制度を卒業した後の、これからのことについて少し書かせていただきたいと思います。
モニター活動の継続
今後も、カウンセラーとしての修行と経験を積むため、継続して月例でモニター様(オンライン)を募集いたします。
引き続き、お力添えのほどをお願い申しあげます。
〇大嵜直人のカウンセリングメニューについて
【カウンセリングメニュー】
※12月分の募集を開始しております。
ココロノマルシェへの回答
オンラインカウンセリング無料相談 - ココロノマルシェに回答をしていきたいと思います。
(ココロノマルシェとは、根本師匠のお弟子さん制度の修了生が、さまざまなご相談にオンラインで回答しているサイトとなります)
〇大嵜直人の回答一覧ページ
【ココロノマルシェ 大嵜直人の回答】
カウンセラーとしての認知のためはもちろんあるのですが、やはり「書くこと」で世界に与え、貢献していきたと思っています。
そして、上に書いたような謙虚さを忘れないように、書いていきたいと思います。
モニター様、マルシェへの回答を通じて、一人一人の方と、深く向き合っていけたらと思っております。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
末筆になり、誠に恐縮ではありますが、あらためて謝辞と御礼を。
ご指導いただきました根本裕幸師匠、
応用心理学講座を担当してくださった椙山眞伍(ヤタ)先生、
いつも支えてくださった事務局・スタッフのKさん、
ファシリテーターとしてご指導いただいた先輩方、
あるいは配信会場のスタッフの方々をはじめ、お弟子さん制度4期に関わってくださった皆様に、あらためまして、深く感謝申しあげます。
ほんとうに、ありがとうございました。
2021年11月28日
大嵜直人