大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

ある冬の朝の陽光。

いつもの時間、いつものランニングシューズ、いつもの道。
いつもの川沿い、いつもの木々、いつもの風。

そんなときに、それはふと起きるようです。

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瞑目していたところに、強い光が差したような。

はっと意識が「そこ」に戻るような、そんな刹那。

わたしはいままで、何を見ていたのだろう、と。

それは、驚くような静けさで。
びっくりするような感動があるわけでもなく、また何か大きな前触れがあるわけでもなく。

静かに、ただ横たわっているのです。

いつから、そこにあったのだろう、と訝しげに首を傾げます。

けれど、ずっと、そこにあったのだと思います。

考えてみれば、365日、太陽が陽光を注ぎはじめる時間は日々変わり、また顔を出す方角も、毎日少しずつ変わっていきます。
月は朔から満ちゆき、また欠け、風はめぐり、時に雨が地を濡らし、潮もまた引いては満ちる。

同じ日など、一日として、ない。

それは、私たちも同じようです。
日々、口にするものと入れ替わっていく。
1か月もあれば、身体を構成するものは総とっかえされます。

あるいは、日々うたかたのように浮かんでは消えていく感情もまた、同じようなものでしょう。

その陽炎のように移ろいゆくものの中に、たまたま、偶然に、それを見かけることがあるのでしょう。

けれど、それは変わらず、いつもあるようです。

ときに見えなくなったり、ときに隠れたり、ときに見つからなかったり。

そんなこともあれど。

そこに、あるようなのです。

ずっと変わらず、いまも。

だからどうこうしようとか、見つけようとか、常に感じないととか、そんなことではなく。

ただ、ある。

そこに、ある。

それだけなのだと、思うのです。

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