いつもの時間、いつものランニングシューズ、いつもの道。
いつもの川沿い、いつもの木々、いつもの風。
そんなときに、それはふと起きるようです。
瞑目していたところに、強い光が差したような。
はっと意識が「そこ」に戻るような、そんな刹那。
わたしはいままで、何を見ていたのだろう、と。
それは、驚くような静けさで。
びっくりするような感動があるわけでもなく、また何か大きな前触れがあるわけでもなく。
静かに、ただ横たわっているのです。
いつから、そこにあったのだろう、と訝しげに首を傾げます。
けれど、ずっと、そこにあったのだと思います。
考えてみれば、365日、太陽が陽光を注ぎはじめる時間は日々変わり、また顔を出す方角も、毎日少しずつ変わっていきます。
月は朔から満ちゆき、また欠け、風はめぐり、時に雨が地を濡らし、潮もまた引いては満ちる。
同じ日など、一日として、ない。
それは、私たちも同じようです。
日々、口にするものと入れ替わっていく。
1か月もあれば、身体を構成するものは総とっかえされます。
あるいは、日々うたかたのように浮かんでは消えていく感情もまた、同じようなものでしょう。
その陽炎のように移ろいゆくものの中に、たまたま、偶然に、それを見かけることがあるのでしょう。
けれど、それは変わらず、いつもあるようです。
ときに見えなくなったり、ときに隠れたり、ときに見つからなかったり。
そんなこともあれど。
そこに、あるようなのです。
ずっと変わらず、いまも。
だからどうこうしようとか、見つけようとか、常に感じないととか、そんなことではなく。
ただ、ある。
そこに、ある。
それだけなのだと、思うのです。