あまりにもよく言われることでありますが、ある人の可能性に制約を与えているのは、その人自身であることが多いようです。
周りから見れば、限りない可能性がある人でも、その人自身が勝手に蓋をしてしまっている。
もちろん、そうなってしまうには、ある種の思い込みや、痛みといった原因があるのでしょう。
「こんな自分を出してしまったら、嫌われる」
「自分には、これくらいがちょうどいいんだ」
「自分はそんな大きなことはできないんだ」
このあたりの思い込み、思考のクセというのは、過去の傷であったりします。
多くは親との関係、あるいは家族の中での関係で受けた傷、あるいは痛み。
それが、友人関係、あるいは恋愛関係のなかで再現されたりして、より強固な傷=制限となったりもします。
そして、なぜ傷つくのかといえば、それだけ大切なものだったから=愛があったから、に他ならないのでしょう。
大切だったからこそ、その傷を後生大事に抱えている。
だから、自分の可能性を閉じてしまう。
その傷をどうこうしようとか、こうしたら癒えるとか、そういったお話をここで書きたいわけではなく、人はみんな多かれ少なかれ、そういった側面があると思うのです。
それは、人のこころの根底に、愛があればこそ、なのでしょうから。
それもまた、人の美しさではあると思うのです。
そうした上で。
その自ら閉じてしまった可能性を開く鍵は、出会いが持っていると思うのです。
「こんなことできませんか?」
「もう少し、こうなりませんかね…」
「もう一つ、何かありませんかね?」
時に、そうしたことをお話しくださる顧客に出会うことがあります。
いい意味で、「難しいお題」を出していただけるクライアント、とでも言いましょうか。
そういった意味で言うならば、可能性を制限しているのは、本人の才能や資質、あるいは能力といったものよりも、出会ってくださる方である、とも言えるでしょうか。
もちろん、相手の要求に全て答えるべきとか、過剰にサービスしろ、というわけではありません。
ただ、時には具体的な要求をされなくても、自然にそういうことを考えてしまう方に出会うことがあります。
この方のために、何ができるだろう、と。
おそらくは、その瞬間が、最も自分の築いてきた強固な制約の壁を、乗り越えるチャンスなのでしょう。
それは、あらゆる思い込みも傷も関係なく乗り越えて、自分の制限を超えることのできる瞬間なのだと思うのです。
それはまた、
「私は何もできない」という諦念と、「私にはできることがある」という意思の、その間に宿る何かだと思うのです。
それを中庸と呼んだり、バランスと呼んだり、自分軸と言ったりするのでしょう。
可能性を制限するのが人であるならば、やはりその鍵を持つのも人なのでしょう。
自分でかけたその鍵は、誰かが持っている。
過去に受けた、傷であったり、痛みであったり。
それを癒すことができれば、こころの壁が緩くなり、自らの可能性の制限を超えて行動していくことができる。
それもまた一つの見方だと思います。
しかしながら、その逆もまた真実のような気がします。
ある出会いによって、「この人のために」と考えるようになることで、自分の可能性の制限を打ち壊してくことができることもあるのでしょう。
その結果、過去の傷が気にならなくなったりもするかもしれません。
かくも、こころの世界では、いつも原因と結果があいまいなようです。
そうした出会いが自分の可能性の制限を取っ払ってくれることが「ある」と「信じる」ことは、すでに可能性を広げてくれるように思うのです。
そんなこんなではありますが、私も、本当に出会うクライアント様みなさま、みなさまに、育てて頂いております。
あらためまして、深く御礼申しあげます。
12月分も残り半分となって参りましたが、引き続きモニター様を募集しております。
お申し込みの程をお待ち申し上げております。
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※音声のみのセッションも承っております。
※次回2021年1月分のモニター募集は、12月下旬を予定しております。