年々、年末年始の特別感が薄れているとは、よく言われることではありますが、私自身もそのように感じます。
やはり、元旦から営業される小売店が増えたことが大きいのでしょうか。
私の幼いころの記憶では、年末年始はお店がすべて閉まって閑散として、賑わいを見せるのは初詣の神社くらい。いつもの街の風景が一変していたように思います。それは、どこかSFのような異世界に舞い込んでしまったような、そんな特別感がありました。
お年玉を握りしめ、新しいゲームを買いに行きたいのですが、街の玩具店は3が日はお休みで、早くオープンしてほしいとじりじりしていたのを思い出します。
正月3が日は、どこもお休みだったのですから、それはそれは年末の買い出しなどは、今とは比べ物にならないくらい、たくさんの食料品やら何やらを、みんなが買いに求めに行ったのでしょう。
それが、いまは元旦や2日から営業されている小売店も多く、コンビニも営業しているようになりました。そこで働く方々のお仕事があってこそですので、ありがたいことです。
私も前職が小売りでしたので、元旦だけ休みという年末年始を長く送っておりました。その元旦は、クリスマスから年末商戦まで駆け抜けた疲労から、ほぼ寝正月。明けて2日からは、初商・福袋で始発に乗って出勤していたことを思い出します。
この年が切り替わるというのは、不思議なもので。
年末は、お客さまがどこか殺気立って、苦情も多くなります。けれど、どこか新年を迎えたあとのお客さまは、緩んでゆったりとした空気が流れているように感じるものでした。
私自身も、元旦の休みというのは不思議なもので、ただ寝ているだけの元旦がほとんどでしたが、普段の休みよりもいろいろと回復するようでした。世の中の空気というか、人の集合的な無意識というか、そういうものなのかもしれません。
今になって思えば、あの慌ただしく働いた年末年始も、たくさんの人が新年をお迎えすることに役に立てていたと思うと、感慨深くもあります。
年末の特別感が薄れているお話から、だいぶ話題が逸れました。
ここ数年来、私にとって年末の特別な感覚を覚えるのは、手帳を新しい年のものに新調する時間のようです。
手帳カバーもだいぶ年季が入ってきましたが、なかなか使い馴染んだものを変えるほど惹かれるものに出会えず。もう少し、使い続けようと思います。
スケジュール管理だけなら、スマホのアプリで十分なのでしょうけれど、やはり「自分で書いた痕跡」というのは、その紙の凸凹を含めて、いとおしく感じられるものです。スケジュール以外にも日々綴っている日記のようなもの、書き留めておいた言葉などを読み返しながら、その年を振り返るのが、私にとって年末を感じる時間のようです。
年が変わっても、持ち越してしきたい大切な言葉などを、新しい手帳に書き写しながら、年の移り変わりを想います。
2021年の今年も、たくさんのことがありました。
いろんな怖さを乗り越えてカウンセリングを学び、そして実際にご提供するようになり。誰に求められるわけでもなくスタートして、続けていた競馬関係の執筆が、書籍に載ったり。公募のエッセイ賞へ、人生初の挑戦をしてみたものの、あえなく撃沈したり。
ただ、そうした外側に見えていることは、ある意味で「花」や「果実」の部分です。
根も茎も幹もなければ、花は咲かないように。
それだけを見て、「いい年だった」「悪い年だった」と思うのではなく、茎や幹、あるいは見えない根っこの部分がどうだったのだろうか?、と内省する時間を、年末年始には少し持ちたいと思います。もちろん、今年1年の自分の歩みを、いたわりながら。
そういった意味では、昨年来の感染症禍は続きますが、少しずつ会いたい人に会いに行ったりできたことは、ありがたく、そしてうれしいことでありました。
いろんなことがあった2021年でしたが、それを振り返りながら、どの一日も慈しみながら、手帳の移植作業を進めたいと思います。
今年も最後までお読みくださり、ありがとうございました。
また来年も、どうぞよろしくお願いいたします。