「痛み」を感じる部分は、その人の愛と才能が眠っています。
たとえば、寂しさに痛みを感じるならば、居場所を与えられる才能があるのです。
1.「痛み」の裏には、愛と才能がある
先日の記事では、「痛み」の裏には、愛と才能がある、というテーマでお伝えしました。
私たちが、心に何がしかの「痛み」を感じるとき。
失恋したとき。
大切なものを失ったとき。
取り返しのつかない失敗をしてしまったとき。
どうしても、その「痛み」を引き起こした事象や、その相手の言動といったことに焦点が向きがちになります。
けれども、そもそも論として、「なぜ、そこに痛みを感じるのか?」という視点が、昨日のテーマでした。
「いや、こんなできごとがあったんだから、『痛み』を感じるのは当たり前じゃないか」
そう思われるかもしれません。
けれども、決してそれは当たり前ではないんですよね。
同じようなできごとがあっても、それに深く傷つく人もいれば、あまり気にせずに日常に戻る人もいる。
それは、悲しみ方の違いというよりも、深い部分での違いがあるようです。
昨日の記事では、「そこに愛があるからではないか?」という視点をご紹介しました。
愛があればこそ傷つくし、裏を返せば、誰かに与えることもできる。
言い換えれば、それは才能ともいえます。
「痛み」を感じるところ。
それは、愛と才能がある場所を指し示しているというのが、昨日の記事でした。
2.痛みを感じるかたち
「痛み」が、愛と才能のありかを指し示してくれる。
そうならば、何に「痛み」を感じるのかで、その人の愛の源泉、そしてその才能の方向性を知ることができます。
もちろん、それがすべてではありませんし、それが分かったとしても「痛み」がなくなるわけではありません。
けれども、「どうやら、こちらの方向に、自分の才能や自分の軸があるらしい」と知ることは、一つの心の支えになるのではないかと思うのです。
痛みに、心が折れそうになることも、あるかもしれません。
自分がどこにいるのか、分からなくなることもあるのでしょう。
深い森の中に、迷い込んでしまうことも、あるかもしれません。
けれども、空を見上げれば、いつも北極星が変わらずに北を指し示していてくれたら、何度でもまた歩みだすことができます。
自分の才能や軸がはっきりするというのは、そのようなイメージがあります。
だから、「痛み」を感じるとき、同時に私たちは方向性を指し示されているともいえるのです。
3.寂しさに痛みを感じるのは、居場所を与えられる才能があるから
「痛み」は、愛や才能を指し示す。
じゃあ、その才能って、どんなものなんだろう?という具体例を、少し見てみたいと思います。
一つの例として、「寂しさ」という痛みがあります。
愛する人との間に訪れた別れ。
なかなか会えないことへの寂しさ。
自分の思いが理解されないことの寂しさ。
形は違えど、「寂しさ」に痛みを感じる人があります。
人によっては、
「寂しいなんて、みっともない」
「いつまでも失恋を引きずってるのはよくない、早く立ち直らないと」
といったように、その「寂しさ」を否定してしまうことすら、あったりします。
こうした「寂しさ」に痛みを感じる人。
その人は、どんな才能を持っているのでしょう。
それは、居場所やつながり、安心感を与えられる才能を持っているのではないかというのが、一つの見方です。
え?と思われるかもしれません。
でも、そうなんですよね。
「寂しさ」に痛みを感じるということは、つながりや居場所がないことが、耐えられないわけです。
それは自分自身もそうなんですが、周りの人に対しても、そうなんですよね。
たとえば周りの人が寂しそうにしているのを、敏感に察知して、その痛みを癒してあげようとするわけです。
それは言ってみれば、与えられるものであり、才能なのです。
「寂しさ」という痛みをカウンセリングで伺っているときは、実はいままで、周りの人の「寂しさ」を癒していたり、居場所を与えてきたりしてきた方が多いものです。
「痛み」は、その人の才能と愛を指し示している。
それを少しイメージしていただけましたら、幸いです。
今日は、寂しさに痛みを感じるのは、居場所を与えられる才能があるから、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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