大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

「才能」ゆえに傷ついた痛みは、与えることでしか癒せない。

「才能」ゆえに傷ついてしまうことがあります。

その痛みは、与えることでしか癒せないものです。

1.「才能」を封印してしまう瞬間

先日の記事では、自分の「才能」を封印してしまう瞬間、というテーマでお伝えしました。

「才能」を封印してしまう瞬間とは。 - 大嵜直人のブログ

「才能」と聞くと、とてもポジティブなニュアンスを感じますが、その「才能」ゆえに傷ついてしまったり、あるいはその「才能」を使わないように抑圧したりしてしまうこともあるものです。

カギになるのは、私たちは「才能」を活かせる環境を選んで生まれてくるし、そうした環境を選んでしまう、という点です。

昨日の記事では、「つながり」を与える才能を持った人を例えにしてみましたが、周りに寂しい人、つながりを求めている人がたくさんいる環境を、意識的にせよ、無意識的にせよ、選んでいる(選んでしまう)わけです。

そこで、「つながり」を与えようとします。

けれども、そのなかで周りの人が受けとってくれなかったり、拒否したり批判したりされると、深く傷つくわけです。

「つながりを、与えてあげられなかった」

「助けてあげられなかった」

といった具合に。

そうすると、「もう、こんな無駄なことやめよう」と、その与えられた「才能」を自分で閉じてしまいます。

これが、「才能」を封印してしまうプロセスです。

これ、二重の意味で辛いんですよね。

一つは、「つながり」を与えるという、自分らしさを隠して生きなくてはならない辛さ。

もう一つは、「つながり」を求めている人が見えてしまうがゆえに、罪悪感を抱えてしまう、というしんどさ。

「助けてあげられなかった」という罪悪感を、抱えやすくなるわけですね。

「才能」を隠して生きるとは、かくもしんどいものです。

2.与えることでしか、癒せない

この痛み、しんどさの抜け出し方は、自分の「才能」を発揮することです。

「与えて、抜ける」

という格言がありますが、まさにそうなんですよね。

与えることでしか、抜けだせない。

与えることでしか、その痛みは癒せない。

でも、それが簡単にできるなら、苦労はしないですよね笑

だって、傷ついたり、痛い経験をして、その「才能」を隠すに至ったわけですから。

それに、

「いや、自分だって、満足するほど与えられてないじゃないか」

と言いたくもなりますよね。

そりゃあ、そうです笑

けれど、そこである種のあきらめというか、諦念というか、自分の「才能」を受け入れることが必要になるんですよね。

あぁ、これが自分の「才能」なんだな…と。

それは、心理的に見れば「依存」から「自立」への成長が必要になるんです。

3.がんばることと、楽しむこと

この「依存」から「自立」への成長は、「がんばる」ことがカギになります。

「ください、ください」の立場から、「自分が与える」という立場に移るわけですから、そりゃあがんばることも必要になるわけです。

巷にあふれる、「がんばらなくてもいい」とは、真逆のアプローチですね。

これを、スパルタでビシバシやってもいいんですが、それもそれでしんどいですよね笑

けれど、この「がんばる」ことは、実に相対的なものです。

周りから見れば、めっちゃがんばっているように見えても、本人からすれば、全然がんばってもいない

たとえば、平日の夜に3日間連続で球場に贔屓のチームの応援に行く人がいたとして、周りから「え、翌日も仕事なのに、応援がんばってるね」と見えるかもしれませんが、本人からしたら「え?がんばってもないけど?」となるわけです。

だから、好きなことというのは、自然な形でがんばることができることですし、それは自分の「才能」と密接につながりがあるわけです。

がんばらなくても、楽しめてしまうもの。

それを通じて「才能」を開いていくと、与えることが苦にならなくなっていくのです。

今日は、「才能」ゆえに傷ついた痛みは、与えることでしか癒せない、というテーマでお伝えしました。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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