「才能」ゆえに傷ついてしまうことがあります。
その痛みは、与えることでしか癒せないものです。
1.「才能」を封印してしまう瞬間
先日の記事では、自分の「才能」を封印してしまう瞬間、というテーマでお伝えしました。
「才能」と聞くと、とてもポジティブなニュアンスを感じますが、その「才能」ゆえに傷ついてしまったり、あるいはその「才能」を使わないように抑圧したりしてしまうこともあるものです。
カギになるのは、私たちは「才能」を活かせる環境を選んで生まれてくるし、そうした環境を選んでしまう、という点です。
昨日の記事では、「つながり」を与える才能を持った人を例えにしてみましたが、周りに寂しい人、つながりを求めている人がたくさんいる環境を、意識的にせよ、無意識的にせよ、選んでいる(選んでしまう)わけです。
そこで、「つながり」を与えようとします。
けれども、そのなかで周りの人が受けとってくれなかったり、拒否したり批判したりされると、深く傷つくわけです。
「つながりを、与えてあげられなかった」
「助けてあげられなかった」
といった具合に。
そうすると、「もう、こんな無駄なことやめよう」と、その与えられた「才能」を自分で閉じてしまいます。
これが、「才能」を封印してしまうプロセスです。
これ、二重の意味で辛いんですよね。
一つは、「つながり」を与えるという、自分らしさを隠して生きなくてはならない辛さ。
もう一つは、「つながり」を求めている人が見えてしまうがゆえに、罪悪感を抱えてしまう、というしんどさ。
「助けてあげられなかった」という罪悪感を、抱えやすくなるわけですね。
「才能」を隠して生きるとは、かくもしんどいものです。
2.与えることでしか、癒せない
この痛み、しんどさの抜け出し方は、自分の「才能」を発揮することです。
「与えて、抜ける」
という格言がありますが、まさにそうなんですよね。
与えることでしか、抜けだせない。
与えることでしか、その痛みは癒せない。
でも、それが簡単にできるなら、苦労はしないですよね笑
だって、傷ついたり、痛い経験をして、その「才能」を隠すに至ったわけですから。
それに、
「いや、自分だって、満足するほど与えられてないじゃないか」
と言いたくもなりますよね。
そりゃあ、そうです笑
けれど、そこである種のあきらめというか、諦念というか、自分の「才能」を受け入れることが必要になるんですよね。
あぁ、これが自分の「才能」なんだな…と。
それは、心理的に見れば「依存」から「自立」への成長が必要になるんです。
3.がんばることと、楽しむこと
この「依存」から「自立」への成長は、「がんばる」ことがカギになります。
「ください、ください」の立場から、「自分が与える」という立場に移るわけですから、そりゃあがんばることも必要になるわけです。
巷にあふれる、「がんばらなくてもいい」とは、真逆のアプローチですね。
これを、スパルタでビシバシやってもいいんですが、それもそれでしんどいですよね笑
けれど、この「がんばる」ことは、実に相対的なものです。
周りから見れば、めっちゃがんばっているように見えても、本人からすれば、全然がんばってもいない
たとえば、平日の夜に3日間連続で球場に贔屓のチームの応援に行く人がいたとして、周りから「え、翌日も仕事なのに、応援がんばってるね」と見えるかもしれませんが、本人からしたら「え?がんばってもないけど?」となるわけです。
だから、好きなことというのは、自然な形でがんばることができることですし、それは自分の「才能」と密接につながりがあるわけです。
がんばらなくても、楽しめてしまうもの。
それを通じて「才能」を開いていくと、与えることが苦にならなくなっていくのです。
今日は、「才能」ゆえに傷ついた痛みは、与えることでしか癒せない、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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