自分の身体は、自分のものと思ってしまいがちです。
しかし、それは半分真実ですが、半分は真実ではありません。
1.自分の身体の扱い方
昨日は、自分の身体の扱い方、というテーマでお伝えしました。
自分への接し方、というお話の流れからでした。
自分が自分をどう扱うかというのは、カウンセリングのなかでも中心的なテーマになることが多いものです。
自分を、醜いアヒルの子として扱うのか。
それとも、この上なく美しい白鳥として扱うのか。
いや、別にアヒルもかわいいんですけれどね笑
要は、自分を卑下して見るのか、それとも愛をもって見るのか、どちらで見るかによって、見える世界が違ってきますし、周りからの扱いもまた変わってきます。
配送の荷物にしても、厳重に梱包されて「貴重品」「取扱注意」と記載してある荷物と、角がボロボロになって所々破れている段ボールとでは、扱い方も違ってきますよね。
自分を必要以上に卑下していることは、周りの人にも「私のことは適当に扱ってください」というメッセージを発していることと同じといえます。
さて、こうした自分の扱いは、身体の扱いもまた、同じです。
身体が発しているメッセージを無視して、身体を酷使したりすることは、自分を否定していることと同じです。
身体は正直で、実にさまざまなことを私たちに教えてくれます。
その声なき声に耳を傾けるのも、自分を大切にすることの一部です。
2.自分のものでありながら、自分のものではない
自分の身体というのは、実に不思議ですよね。
手を動かそうと思えば動かせるし、目を動かそうと思えば動かせる。
自分の思いどおりになるがゆえに、それは「自分のもの」と錯覚してしまうものです。
けれども、私たちの身体というものは、自分のものでありながら、自分のものではないという、不思議な一面を持っています。
身体とは、私たちが生を享けたときに与えられた、偉大なギフトです。
ギフトですから、与えられたもの、なんですよね。
もちろん、自分がオーダーしたものではありませんし、自分の望み通りではないかもしれません。
「もっと身長が高ければ…」とか、「鼻がもっとまっすぐなら…」とか、いろいろ不満は誰でもありますよね笑
ただ、与えられたものだから、自分の好きにしていいか?というと、そうでもないように思えます。
たとえてみるなら、先祖から一子相伝で受け継がれてきた家宝を、自分の一存で処分できるか?というと、それはできるんでしょうけれども、どこか抵抗がありますよね。
家宝というと大袈裟かもしれませんが、実家とか、お墓とか、そういったものもまた、近いのかもしれません。
もちろん、それは自分の判断なのでしょうけれども、どこかそこには「自分だけのものではない」という感覚がつきまといます。
身体もまた、同じです。
連綿と受け継がれてきたものであるがゆえに、それは自分のものであり、それでいて自分のものではないようです。
3.身体は、乗り物
そう考えていくと、自分の身体の声を無視したり、身体をいたわらなかったりすることは、自分に与えられたギフトをぞんざいに扱ってしまうのと、同じことなのかもしれません。
身体、というか肉体は、いつか終わりがきます。
そのときまで、大切に大切に扱っていくのが、私たちの責任でもあるのでしょう。
そして、もっと大切なのは、その身体を使って、何をするか?ということなのでしょう。
受け継がれてきた中で、私に与えられた、この身体。
その身体を使って、何をしていくか。
何を、成し遂げていくか。
何を、与えていくのか。
有限の身体なればこそ、その問いかけは大切に考えてみたいものです。

今日は、自分のものでありながら、自分のものではないのが、わたしの身体、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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