今日は、心理学というよりはエッセイ寄りの内容を。
「分かり合える」という感覚について、少し書いてみたいと思います。
私たちは、常に誰かとコミュニケーションを取りながら生きています。
家族なのか、仕事の同僚なのか、友達なのか、パートナーなのか…
実にさまざまな関係性の中で、コミュニケーションを取っていくものです。
つながりの中で生きるというのが、私たち人間といえるのでしょう。
ただ、そのコミュニケーションには幅と深さがあって、そこに悩み、苦しむのも私たちです。
「海」という情報を共有できたとしても、それが日本海なのか、それとも地中海なのか、冬の海なのか、海の中のことなのか。
「海」を「悲しみ」や「喜び」に置き換えても、同じことなのでしょう。
そうしたコミュニケーションのズレというのは、どんな関係性においても大なり小なりあるものですし、そのズレを修正しながら意思疎通をしていくのが私たちです。
ただ、そうした意思疎通ができたとしても、どこかに「私が思っている『海』を、そのままに理解してほしい」という感覚が残ることがあります。
自分を理解してほしい、という感覚。
これが満たされないと、「自分は世界に理解されない」「どこにも私を理解してくれる人がいない」という絶望を抱えることになります。
「私の思っている『悲しみ』は、そうじゃないんだけどなぁ…」といった具合に。
これは、言葉を尽くして説明することでは、解決できないこともあります。
コミュニケーションの頻度とか質とか、そういった問題でもなく、ただ、世界の見方というか、自分の持っている心という器の形というか、そうした違いであることが多いものです。
日常生活を営む上では問題なくても、どこか深いところで、理解する、される、他人と分かり合える、ということをあきらめている感覚を持っている人は、いらっしゃるのではないでしょうか。
小さいころから、どこか大人びていたりして、子どもらしくなかった。
ある種の役割を自分が演じなければ、家族が家族でいられなかった。
いつも、自分を理解してもらうよりも、相手の痛みをなんとかしてあげたかった。
そうした経験がある方は、思い当たる節があるのではないでしょうか。
そして、小さいころからそうした感覚があると、どこか自分が理解されることをあきらめてしまうことがあります。
他人と分かり合うことをあきらめて、どこか乾いた感覚の中で、日常を営んでいくことも、あるのでしょう。
こうした感覚を持つ方は、理解しよう、されようとする努力が足りないとか、みんなはうまくやっているのにとか、自分を責めてしまうことがありますが、決してそうではないと私は思います。
むしろその逆で、「人と人とのつながり」を大切にしているからこそ、分かり合えない、理解されない・できないことに絶望するのです。
ただ、そのつながりというのは、誰もが常に持てるものでもないのでしょう。
自分自身にしたって、日々感覚や考え方は変わっていきます。
他人もまた、同じです。
あなたと私は、違う人。
私とあなたは、違う価値観を持ったうえで、お互いにそれぞれの時間を生きている。
その線引きは、やはり必要だと思うんですよね。
だからといって、そこに絶望する必要もないとも思うのです。
ただ、わたしはわたし、あなたはあなた。
そこに、善悪も何もありません。
理解してもらえるという期待や、理解してあげたいという思い上がりを、いったん脇に置いてみる。
その線引きは、「つながり」を大切にする人だからこそ、大切なんですよね。
そしてその線引きをした上で、もしも、もしもですよ、ほんの一瞬でも、何かを共有できたとしたら。
「あ、この人の言っていることを、わかる気がする」
「わたしの感じていることを、なんとなくわかってもらえている」
そう感じることのできる瞬間があるとしたら、それはまさしく奇跡と呼べるようなものではないでしょうか。
もちろん、その奇跡を相手に強要することは必要ありません。
ただ、自分の中の喜びとしてとどめておけばいいんです。
勝手にそれは、伝わっているのでしょうから。
ただ、そうした相手は、この広い世界には、いるんですよね。必ず。
もしも、そうした相手にめぐり会えたのであれば、その僥倖に感謝すればいいんです。
もし、まだ会えていなくても、それはまだ出会えていないだけで、世界にはそんな人が必ずいるのです。
そんなことを、お伝えしていきたいなと思います。