大切な人を愛せないとき、受け入れられないとき、私たちは強い痛みを感じます。
その痛みのルーツと、癒し方についてお伝えします。
1.「完璧でないと愛されない」の誤解
昨日の記事では、「完璧でないと愛されない」の誤解、というテーマでお伝えしました。
「完璧でないと愛されない」という観念の源泉と、その勘違いについて。 - 大嵜直人のブログ
私たちは成長するなかで、「完璧でないと愛されない」という観念を持ってしまうことがあります。
その観念を持っていると、自分の短所や欠点を隠しておかないといけなくなりますし、自分でなんでもやらないといけないと感じるので、非常にしんどくなります。
この観念のルーツは、「完璧でないと愛されなかった」という過去の経験からくることが多いものです。
何か失敗をした。
できないことがあった。
うまくやれなかった。
そうしたときに、自分の大切な人から愛されなかった…
そういった経験があると、「そうか、完璧じゃないと愛されないんだな」「不完全な自分では、ダメなんだな」という思いにいたるわけです。
けれども、こうした観念は勘違いの可能性もあるのでは、というのが昨日のテーマでした。
「完璧じゃないから、愛されなかった、拒絶された」というのは、実は「自分が」拒絶していたのかもしれない、という視点でした。
え?と思われるかもしれませんが、その場合は昨日の記事をご覧ください笑
2.大切な人を愛せない、受け入れられない痛み
さて、今日はこの「自分が拒絶してしまった」という痛みについて、少し掘り下げてみたいと思います。
痛みについてなので、あまり重くなりすぎないようにしたいと思います笑
この「拒絶してしまった」という痛みって、けっこう深いものがあるんですよね。
言い換えるなら、「愛せない苦しさ」、あるいは「受け入れられない苦しさ」とも言えるでしょうか。
自分のなかで、大切な人。
ほんとは、自分の愛を伝えたい、届けたい人。
そうした人を、いろんな事情や状況が重なって、愛せないときがあります。
相手の言動が自分にとって苦しいものだったり。
自分がいっぱいいっぱいで、受け入れる余裕がなかったり。
そうしたときに感じる苦しさ、痛みというのは、非常に大きいものがあります。
もちろん、罪悪感も感じます。
「相手も苦しいんだよな、でも、それを受け入れる余裕がないんだ…ごめんなさい…」
といった具合に。
これが、苦しいんですよね。
それで、昨日の記事でもお書きしたように、「いや、そんなことする相手の方が悪い」とか、「向こうから拒絶してきたんだ」と、自分を納得させようとします。
そうすると、表面上は相手への怒りや憤りとして感じられます。
けれども、その裏側では、相手を受け入れられない、愛せない罪悪感が、たんまりと溜まっていたりするものです。
なので、大切な人を愛せないとき、受け入れられないとき、私たちは二重の意味で苦しいものです。
3.自分を愛することでしか、器は広がらない
相手を受け入れること、愛することは、究極的には自分自身の扱いの鏡です。
相手が見せてきたある面が、受け入れられないということは、自分のなかにあるその面を嫌っていることの写し鏡でしかありません。
不機嫌になっている相手を受け入れられないとしたら、それは不機嫌な自分を自分が嫌っているのでしょう。
相手の見せるある面を愛せないのだとしたら、それは自分のなかにある同じような面を、愛せていないのでしょう。
自分が自分をどう扱っているかが、相手との関係性に大きく映し出されます。
私たちは、自分を愛することでしか、愛する器を広げることはできないようです。
いつも同じ話にはなってしまうのですが、やはり、自分を愛することから、すべては始まります。
相手を受け入れられないとき。
相手を愛せないとき。
その相手の愛せない部分が、自分のなかにもあるのではないか。
そして、その部分を自分がどう扱っているのか。
そこを、少し向き合っていくと、愛せない痛みや受け入れられない苦しみを、手放していくことができるのでしょう。
今日は、大切な人を愛せない、受け入れられない痛みについて、その勘違いについて、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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