自分の身体にせよ、生まれてくる家族にせよ、私たちの周りには自分が選ぶことのできないものがいっぱいです。
しかし、真に成熟するとは、そうした自分が選んでいないものを受け入れることでもあります。
1.自分の身体という不思議な存在
昨日は、自分の身体、というテーマでお伝えしました。
自分のものでありながら、自分のものではないのが、わたしの身体。 - 大嵜直人のブログ
自分自身を大切に扱う、というお話の流れからでした。
自分が自分自身をどう扱うかは、何においても大切なテーマです。
自分で自分を否定したり、卑下したりしていると、それは周りに「私をぞんざいに扱ってください」というメッセージを発していることになります。
その反対に、自分を大切に愛することができればできるほど、周りの人からそう扱われるでしょうし、自分自身もまた周りの人にそう接することができます。
こうした自分の扱いが顕著に出るのが、自分の身体の扱い方、労わり方です。
身体が発するメッセージを無視するのは、自分をないがしろにしていることに他なりません。
自分の身体を、かけがえのないものとして扱うことは、自分を大切にすることと同義です。
私たちの身体は、自分のものであり、それでいて与えられた、自分ののものではない、という不思議な側面があります。
もし身体が与えらえたもの、ギフトであるなら、なかなかそれを粗末に扱うのはできないですよね。
昨日の記事では、そんなテーマをお伝えしました。
2.自分の身体を愛するプロセス
さて、自分の身体を大切にする、愛するというのは、時に難しいものです。
特に思春期に特徴的ですが、自分の身体の理想的ではない部分ばかりに目が向いて、受け入れられないことも多いですよね。
「足が短くて…」とか、「くせ毛で…」とか、いろいろありますよね。
もちろん、本人の努力でどうにかなる部分もありますが、生まれつきというか、どうにもならない部分もあります。
スタイリングでいうところの、ストレートとかウェーブとかの体型とかもそうですよね。
筋肉をつけたりすることはできるけれども、根幹の部分はどうしようもない。
「自分が選んだんじゃないのに…」と、不満の一つを言いたくなるのも、当たり前かもしれません。
けれど、よくよく考えてみると、この身体もそうですが、私たちの周りには自分で選んでもいないことばかりです。
肌の色もそうですし、生まれる国や地域、両親やきょうだいも、そうですよね。
ゲームをはじめるときのエディット画面のように、自分で選ぶことのできるわけでもないのが、私たちのようです。
3.選んでいないものをも、受け入れること
ものすごく深いところでは、私たちはすべて選んで生まれてきている、というお話も聞きます。
それが肚の底から納得できるならばいいんでしょうけれども、なかなかそうはいかないですよね。
私もそうですが、「自分が選んでいるんじゃないのに」と、愚痴や不満の一つを言いたくなることは、多々あります。
はい、しょうがないですよね、それは笑
ただ、どれだけ愚痴を言っても、不満を言ってもいいんですが、最後にそれを引き受けるのは、自分自身でしかありません。
逆に、真に自立するとは、こうした「自分が選んでいないもの」を、自分の責任として引き受けて生きていくことに、他なりません。
愚痴を言いたくなるのも、当たり前です。
私たちのまわりには、あまりにも「自ら選んでいないもの」が多すぎる。
けれども、それを「押しつけられたもの」と捉えるのか、それとも「与えられた贈り物」と捉えるのか。
そのいずれかで、私たちの生はいかようにも変わっていきます。
別に「与えられた贈り物」として捉えないといけない、というわけではありません。
納得できないのに無理に思い込もうとすると、自分に嘘をついてしまって、しんどいだけですから。
ただ、「どちらを選ぶこともできる」ということは、常に頭の中に置いておいていいのでしょう。

今日は、自分が選んでいないものをも受け入れる、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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