「シャドウ」を受け入れようとするとき、理性でやろうとするとどうしても難しいものです。
どこか、おバカになるというか、その相手と張り合うことをやめることがひつようになるのです。
1.私の大嫌いなあの人が、幸せになりますように
先日の記事では、最後はおバカになる、というテーマでお伝えしました。
わたしの大嫌いなあの人が、幸せになりますように。 - 大嵜直人のブログ
「シャドウ」の受け入れ方についてのお話でしたね。
私たちが生きていく中で、自分のある部分を嫌ってしまったり、抑圧してしまったりすることがあります。
その部分というのは、消えてなくなるわけではなく、自分のなかの奥底に沈んでいるものです。
そして、その部分が自分の外側の世界に映し出されると、自分がとても嫌悪感を感じる相手として現れるわけです。
自分のなかに隠した分、それが外の世界に投影される、ともいえます。
さて、こうした「シャドウ」は、私たちの自己受容、自分を愛するというプロセスのなかで、非常に重要な意味を持ちます。
「シャドウ」を受け入れ、許し、愛することで、私たちが自分が失った自分自身の一部を取り戻し、本来の自分として生きていくことができるようになるからです。
昨日の記事では、その「シャドウ」の受け入れ方のヒントとして、その大嫌いな相手の幸せを祈る、という方法をお伝えしました。
2.「そんなことしたら、バカみたいじゃん」
大嫌いなあの人の幸せを祈る。
自分に対してひどい扱いをしてきた母親。
自分を傷つけてきたパートナー。
自分のパートナーを奪った、不倫相手。
そうした存在が「シャドウ」になることも、あるものです。
こうした存在を受け入れ、許すことは、ある意味で「許し」のプロセスと似ているのかもしれません。
「シャドウ」の場合、受け入れるのは、そうした相手の要素を持つ自分自身である、という違いはありますが。
ただ最終的には、その相手を受け入れ、許し、愛し、そしてその相手の幸せを祈る、という境地に達する、ということは同じです。
でも、普通に考えたら、なかなかできないですよね。
感情的には、大嫌いな相手や、許せない相手。
そんな相手には、不幸になってほしいし、自分を傷つけた分、その相手も傷ついてくれと思うのが、ある意味で当たり前ですよね。
「そんな相手の幸せを祈るなんて、ありえない」
「そんなことしたら、自分だけ損しているみたい」
「バカみたいじゃん、そんなの」
そんな想いが、湧き出てくるのも、当たり前かもしれません。
でも、その「ありえない」ところに、抜け道というか、解決策が転がっていたりするんですよね。
3.おバカになる、負けを認める、降参する
このハードルを越えるには、そうした常識的な損得勘定を手放していく必要があります。
昨日は「おバカになる」と表現しましたが、まさにそうなんです。
「バカ」ではなくて、「おバカ」というところが、ポイントです笑
要は、その相手と張り合うことをやめるんです。
負けを認めるんです。
降参するんです。
「絶対に、イヤ!」と思われるかもしれません。
でも、それが幸せの近道だったりするんです。
正しさと幸せは反比例すると言ったりもしますが、その相手よりも正しくあろうとしたり、張り合っていたりすると、幸せを感じづらくなります。
その逆に、負けを認めてしまえば、幸せを感じる時間が増えてきたりするものです。
「なんか、おかしいんですよね。別に起こっていることは変わらないし、あの人の言動も変わらないんですし、問題もそのままなんです。けれど、何をしていても、なんか幸せを感じるし、満たされているし…これって、変なんですかね…??」
といったように。
別に全然、変じゃないんです。
むしろ、ようこそ、おバカの世界へ!といった感じでしょうか。
おバカになる。負けを認める。降参する。
その相手と張り合わないことです。
負けていいんです。
幸せは、そちら側にあるのですから。
今日は、おバカになる、負けを認める、降参する、というテーマでお伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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