大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

自分の人生を選ぶことと、与えられたものを受けとることは、同じこと。

自分の人生を選ぶことと、与えられたものを受けとることは、同じことの裏表です。

自分が選んでないように見えるものでも、それを受け入れることができると、広がりが生まれます。

1.自分を癒しなさいというサイン

昨日の記事では、自分を癒しなさいというサイン、というテーマでお伝えしました。

「すべては自分が選んでいる」のが酷に聞こえるなら、まずは自分を整えなさいというサイン。 - 大嵜直人のブログ

「すべては自分が選んでいる」、というお話からのつながりでした。

どんなできごとも、起こったこと自体はフラットです。

大きな仕事が決まったことも、彼女と別れたことも、雨が降ったことも。

そのできごと自体は、無色です。

そこにどんな意味付けをするか、どんな感情を貼り付けるのかは、自分自身に他なりません。

だって、同じようなできごとが起きても、真逆の意味付けをする人は、いくらでもいるでしょうから。

ものごとの意味付け、解釈は、自分が選んでいる。

けれども、その見方を聞いたときに、「えー、そんなこと言ったって…」とか、「それは酷な見方じゃない?」と感じることだって、ありますよね。

そんなときは、無理矢理にその見方をしようと自分に押しつけるのではなく、まずは自分を癒すことを優先した方がいいんですよね。

言い方を変えると、「自分が選んでいる」という見方に違和感を感じるときは、自分を癒しなさいというサインだったりします。

昨日の記事では、そんなテーマをお伝えしました。

2.依存を抜け出す、被害者の立場を捨てる

この「自分が選んでいる」という見方は、自分が自分の人生の主導権を取り戻す、大切な一歩目です。

それは、依存を抜け出し、被害者の立場を捨てる、という意味でもあります。

心理的な意味での、依存や被害者の立場ですね。

それらは、いずれも「自分は何もできない」「何をするにも、相手次第」という心理状態になります。

依存は、エサを与えてもらうヒナのように、相手が与えてくれるのを待つしかありません。

自分では、エサを獲れないと思い込んでいる状態です。

これは、しんどいですよね。

自分がおなかがすいたタイミングでも、相手が与えてくれなければ満たされないですし、そこに不平不満、無力感や無価値観が渦巻いてしまいます。

また、被害者の立場は、「自分は傷つけられた」と、相手に謝罪と補償を要求し続けます。

たとえ相手がそのとおりに謝罪したとしても、「でも、私の傷は癒えていない」とばかりに、相手を責め続けます。

相手を責めるということは、同時に罪悪感を抱えることになります。

罪悪感は、自分を幸せから遠ざけ、まるで重荷を背負っているように感じさせます。

これが、しんどいんですよね。

「自分が選んでいる」という見方は、こうした依存や被害者の立場を抜け出すために、必要な考え方の一つです。

3.与えられたものを受けとると、広がりが生まれる

「自分で選んでいる」ということは、不条理も何もかもを受け入れる、という意味でもあります。

表現を変えるならば、自分に与えられたものを、清濁併せ吞むというか、自分基準での善し悪しで選別せずに、すべて受けとる、というイメージです。

「それも、これも、わたし」

「あれも、これも、わたしの人生」

といった具合に。

受けとらないことは、自分の世界を狭めています。

受けとるものが増えると、世界は広がりを見せてくれます。

なんか、今日はすごく感覚的な書き方になっていますね。なんとなく、イメージできますでしょうか笑

「自分で選んでいる」ことと、「与えられたものを受けとる」ことは、同じなんですよね。

生まれや身体、境遇や家族、性格といった、自分が望んでそうなったのではないものを含めて、自分に与えられたものを、受けとる。

それを、「自分の人生だから、自分が選んでいるんだ」と、決める。

そうすることで、私たちは自分の人生の舵を、握ることができます。

そこから、はじまるんですよね。

今日は、自分の人生を選ぶことと、与えられたものを受けとることは、同じこと、というテーマでお伝えしました。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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