「つながり」が感じられないと、私たちはとても落ち込み、自分の価値が信じられなくなります。
しかし「つながり」とは、相手がどうこうとは関係がなく、自分の心の扉が開いていれば、感じられるものです。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.もしだれともつきあっていないのなら、それは扉を閉じてしまたから
関係が終わるときに経験する痛みや怒りのせいで、ときには扉を閉めてしまうことがあります。
そして、すべての「かかわりの扉」を閉じてしまったことを、完全に抑圧してしまうのです。
しばらく時間がたつと、新しい関係を探し求めにでかけます。
しかし、どれだけ長い時間をかけて一生懸命、あらゆる方角を探してみても、興味をもてるようなピッタリした人がどこにも見つかりません。
これはあなたが扉を閉ざしてしまったからです。
ただし、これはよい知らせです。
いますぐにでも扉を大きく開け放ち、ふたたびはじめることができるのです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.222
2.つながりの喪失が、問題をつくる
今日のテーマは、「つながり」でしょうか。
なかなか抽象的で難しいテーマですが、少し考えてみたいと思います。
「つながり」がないことに、人は耐えられない
誰かと、つながりたい。
そう考えるのは、私たちの根源的な欲求です。
あらゆる問題は、分離や孤独、つまりは「つながっていないこと」が引き起こすともいわれます。
「つながり」がないことに、人は耐えられないようです。
パートナー、友人、社会、地域、家族…
そうした存在と、つながりが感じられないと、私たちはとても落ち込み、自分の価値が信じられなくなります。
いろんな角度から、その理由を考えることができます。
私たち人類は、個と個が連帯することで、他の生物とは違う進化を遂げてきました。
たとえば、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の「サピエンス全史」では、架空の事柄=虚構について語る能力を獲得したことを、「認知革命」として人類史のなかで非常に大きなできごととしています。
共通の神話を持つことで、大勢で協力することができるようになった、と。
他の個体との「つながり」とは、私たちが厳しい環境を生き抜くために、なくしてはならないものだった。
それゆえに、「つながり」がないことに、危機感を覚えるのかもしれません。
あるいは、少しスピスピした見方をするならば、もともと一つの大いなる存在だったことの裏返し、あるいは郷愁と見ることができるかもしれません。
その理由がなんであれ、誰かと、何かとつながっていることは、私たちにとって非常に大切なことなのでしょう。
「つながり」とは、心にふれること
では、「つながり」とは、なんでしょうか。
どうしたら、「つながっている」と感じることができるのでしょう。
会話を交わしたら、つながっているのでしょうか。
相手に触れたら、つながっているのでしょうか。
そうかもしれませんが、大人数の飲み会で孤独を感じたり、満員電車のなかで不快感をおぼえることを考えると、そうではなさそうです。
「つながり」を定義するならば、相手の心にふれていること、いえるかもしれません。
まったく触れずに離れている場合は、「分離」。
べったりと重なりあってしまっている場合は、「癒着」。
「つながり」は、そのいずれとも違います。
心の境界線を取り払って、お互いがお互いのまま、つながりあっている状態。
それを、「つながり」とよぶことができそうです。
たとえ、言葉も、肉体的な接触も、なかったとしても。
ただただ、自分のハートをひらいて、相手のことを感じることができたとき。
そのとき、私たちは「つながり」を感じます。
だから、たとえどれだけ会話をしつくしたとしても、どれだけ身体を重ねたとしても、「つながり」が感じられないことは、ありえます。
反対に、ただ視線をあわせるだけでも、いまここにいない相手のことを想うだけでも、私たちは「つながり」を感じられますし、満たされます。
だから、物理的に離れていようが、あるいは相手が亡くなっていようが、「つながり」を感じることは、できるのです。
不思議ですよね、人の心って。
3.その扉を開くために
「痛み」が扉を閉める
「つながり」について、そんなふうに考えていくと、実は相手がどうこうというのは、関係がないことがわかります。
どれだけ相手が近かろうが、言葉をかわそうが、身体を重ねようが、
自分自身のハートが開いていなければ、「つながり」は感じられません。
「つながり」が感じられないのは、心が閉じているから。
周りとの境界線を、自分で引いているから。
「つながり」が感じられないとき、私たちはどこかで心を閉じてしまったようです。
だって、生まれたばかりの赤子は、どこまでもハートが開いています。
私たちの指先の、ほんのわずかな動きに興味を示し、こちらが微笑みかけると、天使の笑みで返してくれます。
それが、いつかどこかで、私たちは心の扉を閉じてしまいました。
それは、やはりどこかで経験した「痛み」から、閉じてしまったのかもしれません。
関係が終わるときに経験する痛みや怒りのせいで、ときには扉を閉めてしまうことがあります。
ある関係が終わるとき、私たちは痛みや怒りを覚えます。
赤子から成長してくとき。
誰かと別れるとき。
自分の足で、立とうとするとき。
どこかで覚えた「痛み」によって、私たちは心の扉を閉め、境界線を色濃く引いてきたのかもしれません。
それは、「痛み」を抑圧することには、役に立ったのかもしれません。
けれども、その裏返しとして、分離と孤独を感じるようになります。
まずは、自分自身との「つながり」をひらくこと
その「痛み」を知ること、そして、いたわること。
それは、「つながり」を取り戻す、大きな一歩目です。
自分自身との「つながり」をひらく、と言い換えることでもできます。
いつも同じことを書いている気がしますが、心の扉を閉めてしまったからといって、それが悪いわけでも、間違っているわけでも、なんでもありません。
ただただ、そうせざるをえなかった。
それだけ、「痛み」があった。
それだけ、傷ついていた。
そうなんだと思います。
人の根源的な欲求である、「つながり」。
それを閉じなければいけないほどに、傷ついていた。
ただ、そう思うのです。
そうだとするなら、ただ、その「痛み」があることに気づき、それをそっと抱きしめること。
そうすると、「つながり」を感じられるようになっていきます。
閉めてしまった扉は、開けることができるのです。
今日は、「つながり」という、なかなか抽象的なテーマでした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
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