「役割」を演じることは、自分の無価値観を隠してくれますが、そのかわりに生のみずみずしさを奪ってしまいます。
そんな「役割」の心理にある、根っこの部分を考えてみます。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.愛はおのずと流れるものであり、「恋人」の役割は親密さを制限する
愛は日々新しく生まれ変わろうとする心から生まれます。
愛に決まったレシピはなく、従うべきマニュアルもありません。
愛に教えてもらおう、愛に自分を開いてもらおうという姿勢から愛は生まれるのです。
あなたが型どおりにふるまっているときは「恋人とはかくあるべきだ」という考えに従っているにすぎません。
この役割は心の深いレベルに無価値観があり、受けとることを妨害します。
恋人の役割を演じていると、本当の愛の炎のなかに入ることができません。
愛の炎はあなたを溶かし、癒しと浄化をもたらすとともに、あなたに道を示してエクスタシーと人生の流れへと導いてくれます。
そこでは、かつてないほどあなた自身でいられることでしょう。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.269
2.「役割」は生のみずみずしさを奪う
今日のテーマは、難しいですね…
「愛」が根底にあるとは思うのですが、そこから話すととっ散らかりそうなので、「役割」の心理から話してみたいと思います。
「役割」と無価値観の関係
「役割」とは、自分自身につける仮面ようなものです。
いまは夏祭りの時期ですが、屋台でいろんなキャラクターのお面を打っていたりしますよね。
小さい子どもにとって、自分の好きなキャラクターになれるのが、お面をつける楽しみなのでしょう。
大人の私たちも、キャラクターではないですが、いろんな仮面をつけています。
会社員としての自分、
母親としての自分、
友だちのグループの中の自分、
息子としての自分…じつにいろんな「役割」、あるいは仮面があります。
では、なぜそうした仮面をつける必要があるのか。
引用文にある通り、それには「無価値観」が深くかかわってきます。
この役割は心の深いレベルに無価値観があり、受けとることを妨害します。
自分には価値が無いと感じることを、無価値観と呼びます。
それは非常にしんどい感情なので、そこから逃れるために、「自分には価値がある」ことを証明したくなります。
そうしたときに、私たちは「役割」をつけようとします。
いい父親、仕事ができる人、ものわかりのいい娘、いつも受け入れてくれる友人…
そうした「役割」の仮面をかぶることで、自分の無価値観を相殺しようとするわけです。
それは、高価な衣服やアクセサリを身に着けることで、自分に高価な価値があると思いたい心理と、似ているのかもしれません。
こう書くと、とてもねっとりとしてイヤな感じがしますが、誰しもが大なり小なり、抱いているものだと思います。
当然、私もたくさんの「役割」を演じながら、生きています。
「役割」自体がいけないものでは、ありません。
それは周りの人を大切にするために、つくりだしたもの、と見ることもできるからです。
先ほど挙げた、小さい子どもがヒーローのお面をかぶるのは、そのヒーローの力を使って、何かしたいことがあるのでしょう。
それは、大切な人を助けたい、という想いかもしれません。
それと同じように、仮に無価値観から「役割」を抱いたとしても、それはその「役割」を演じることで、大切な人を守りたかった、助けたかったのかもしれません。
「役割」で得た価値を、誰かに与えたかったのではないか、という視点です。
「役割」に限った話ではないですが、その視点は忘れないようにしたいものです。
「役割」は与えられるけれど、受けとれない
少し話がそれました。いつも通りですが笑
ただ、そうはいっても、「役割」のなかにいると、しんどいなと感じることもあります。
「役割」とは、与えるけれど、受けとることができない、という性質があるからです。
先ほど挙げたような、「いい父親」、「ものわかりのいい娘」、「包容力のある友人」、「ハードワーカー」といった「役割」が、その価値を与えることができるのは、容易に想像できますよね。
それぞれの「役割」が持つ価値を与えて、相手が喜んでくれたとしても、なかなかそれを素直には受けとれないわけです。
だって、それは「役割」、仮面の自分が受けとってしまうから。
ヒーローに変身する前の、何者でもない自分は、何も受けとれないわけです。
それどころか、「役割」が受けとるほどに、そもそもの自分自身の無価値観は、反比例するように大きくなっていったりします。
このように、「与えることができても、受けとることができない」のが、この「役割」のしんどさです。
さて、そのように考えていくと、今日のテーマに出てくる、「恋人の役割」の問題というのも、おぼろげながら見えてくるのではないでしょうか。
「恋人だから、〇〇しないとけいない」
「パートナーの言うことだから」
「パートナーとは、深く理解しあうべき」
「恋人ならば、〇〇すべき」
どこか、私たちの心の中には、そうした観念があるのかもしれません。
そこから出てくる「与えるもの」は、見かけ上はすばらしいものかもしれませんが、どこか私たちの心の底に、澱のように沈んでいくものです。
それは、パートナーシップの難しさであり、また奥深さでもあるのでしょうけれども。
3.愛に教えてもらおう
同じ根っこを持つならば
さて、そうした「役割」を手放しましょう、という話の流れにはなるのですが、なかなか単純にはいかないものです。
「今日から役割を外して自由に愛しましょう!」と言ったところで、難しいものです。
それは、「役割」が完全な悪者なのではなくて、もともと「大切な人に与えたいから」「愛する人のために」身に着けはじめたものだから、ということも、関係しているのかもしれません。
同じ根っこから咲いた花が、あったとして。
片方には「いいよ!」、もう片方には「ダメ!」としてしまうのも、苦しいものです。
片方が枯れたら、もう片方も枯れてしまうものですから。
なかなか、難しいですよね。
では、どうしたらいいか。
同じ根っこを持つのであれば、その「根っこ」に注目してもいいのかもしれません。
どうして、しんどい思いをしてまで、「役割」を演じようと思ったのか。
もちろん、そこには自分の無価値観を隠すため、という意味付けをすることはできるかもしれません。
でも、その先にある、「価値のある自分でいることで、愛する人に与えたい」という気持ちが、あるのではないでしょうか。
今日は、そんな「根っこ」の気持ちに、注目してみてはいかがでしょうか。
「役割」にダメ出しをするよりも、そちらの自分の素直な気持ちにフォーカスする方が、楽ですから。
愛に、教えてもらおう
その人は、あなたにとって、どんな存在なのでしょうか。
「いい恋人」でいることで、何を与えたかったのか。
そもそも、その人に与えたかったことは、何だったのでしょう。
そんなことを、自分の心に問いかけてみては、いかがでしょう。
もちろん、すぐには出てこないかもしれません。
もう何も感じないかもしれません。
恨みつらみも、出てくるかもしれません。
けれど、人の心は、不思議なものです。
ずっと問い続けると、必ず答えを返してくれます。
その答えがどんなものであっても、日々移り変わるものであっても、あるいは「いい恋人」からかけ離れたものであっても。
それを、大切にしていただきたいな、と思うのです。
自分の愛が届かないことに、人は深く傷つきます。
言い換えるならば、人は愛するために、生きているともいえるのでしょう。
愛は日々新しく生まれ変わろうとする心から生まれます。
愛に決まったレシピはなく、従うべきマニュアルもありません。
愛に教えてもらおう、愛に自分を開いてもらおうという姿勢から愛は生まれるのです。
引用文の冒頭が、すべてのように感じますよね。
さて、あなたの根っこは、どんな根っこでしょうか。
その人は、あなたにとって、どんな存在なのでしょうか。
「いい恋人」でいることで、何を与えたかったのか。
そもそも、その人に与えたかったことは、何だったのでしょう。
今日も、ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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