「絶望」とは、過去の喪失や失敗、恥辱や挫折が、「絶望」を引き起こすのではありません。
そのできごとで傷ついたゆえに、誰かを信頼できない、大切な人を愛せないから、人は「絶望」します。
けれどもそれは、信頼したい、愛したいという想いがあるがゆえに、抱くものだと思うのです。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.「絶望感」とは、新しいものがなくなってしまうという怖れ
過去における喪失は、それほど大きなものではありません。
私たちはみんなそれを経験しました。
実際の絶望とは、過去の喪失感とともに前に進んでいく怖れなのです。
それは「ふたたび失うのではないか」という怖れでもあるのです。
そこで前に進むことをこばみ、現在や未来を信じられなくなります。
そして、すべてに対して信頼することを拒否してしまうのです。
それは「信頼がまた裏切られるのではないか」「とても大切なものを失ってしまうのではないか」と怖れているからです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.271
2.人は、過去よりも未来に絶望する
今日のテーマは、「絶望」でしょうか。
あまり考えたくないテーマではありますが、どんより沈まないように書いていきたいと思います笑
「絶望」の対極にある、「信頼」とは
あることを考えるときに、その反対のことを考えることは、非常に有効な思考法です。
「絶望」を考えるとき、その反対とは何でしょう。
いろいろ考えられそうですが、「信頼」は一つの反対の極に位置するのではないかと思います。
「信頼」とは、その対象の価値や魅力、才能、あるいは可能性といったものを見る行為です。
それは、その対象を愛する行為の一つです。
それは、現実の行動になると、心を開いた状態で、相手にゆだね、任せるといった行動になるのでしょう。
その対象が、自分自身の場合は、「自分を信頼する=自身」となります。
ここで大切なのは、「信頼」とは、決して無理やりにポジティブな面だけを見るわけではない、ということです。
ポジティブな部分だけではなく、ネガティブな部分もあわせて受け入れることが、「信頼」のなかで大切な部分です。
これは、自己肯定感を考えるときにも、同じことがいえます。
ポジも、ネガも、どちらも見たうえで、目の前に起こっていくプロセスに対して、
「絶望」とは、未来に対してするもの
さて、「絶望」に話を戻します。
「絶望」とは、ここまで見た「信頼」が無い状態といえます。
何に対して?
それは、未来に対してです。
引用文でも、冒頭にさらっと書いていますね。
過去における喪失は、それほど大きなものではありません。
私たちはみんなそれを経験しました。
あまりにも自然な書き出しなので、読み流してしまいそうですよね笑
けれど、ここに書かれていることは、非常に示唆に富んでいます。
それがどれだけ大きな喪失であれ、失敗であれ、恥辱であれ、過ぎ去ったものに対しては、私たちは「絶望」しません。
もちろん、失われたという事実を受け止め、それを自分の人生と納得するのに、時間はかかるかもしれません。
けれども、過去に対して、私たちは「絶望」しないんですよね。
これは、よく私のブログで引用する、ジュリア・キャメロンさんの言葉と、近しい感覚があります。
私が今いるこの瞬間は、つねに、私にとって唯一、安全な場所だった。その瞬間瞬間は、かならず耐えられた。
今、この瞬間は、大丈夫なのだ。私は息を吸い、吐いている。
「ずっとやりたかったことをやりなさい」
ジュリア・キャメロン著(サンマーク出版、原題:The Artist's Way)より
過去に起こったことに対しては、私たちは「絶望」しない。
そうではなくて、人が「絶望」するのは、未来に対して、です。
それは、
「私はふたたび、こんな痛みを味わうのだろうか」
「私は、また大切な人をなくすのだろうか」
「また、裏切られるのではないだろうか」
という怖れであり、痛みです。
それこそが「絶望」ではないかというのが、今日のテーマです。
3.「絶望」のすぐそばに「誕生」もある
「絶望」の正体とは、愛せない痛み
喪失そのものの痛みが、「絶望」なのではない。
それによって、未来を信じることができなくなったり、前に進むことが怖くなったりすること、それこそが「絶望」の正体ではないか。
これは、非常に親しい人をうしなったり、どうしても叶えたかった夢に破れたりしたことがある方は、近しい感覚を持つことがあるかもしれません。
こうしたある種の「痛み」の経験があると、他人と距離を縮めたり、誰かを愛することに、非常に抵抗を覚えます。
これが、しんどいんですよね。
人は、自分自身の痛みには、耐えられるんです。
それが、身を切り裂くような痛みであっても、地吹雪のなかで一人耐える痛みであっても。
自分の痛みには、耐えられるんです。
けれども、その痛みゆえに、誰かを信頼すること、愛することにブレーキを踏んでしまう。
これが、めちゃくちゃ痛いんですよね。
人は、自分自身に降りかかる痛みには耐えられるんですが、大切な人を愛せない痛みには、耐えられない。
これは、愛されないことよりも、愛せないことの方が、人は深く傷つくことと、よく似ています。
「絶望」とは、愛することができるからこそ抱くもの
そうした「絶望」の心理。
しかしそこは、最も「愛」と近い場所にあるのかもしれません。
昨日のテーマでお話しした、「デッドゾーン」のすぐそばにこそ、「誕生」があることと、似ているようです。
もう一度、原点に戻ってみますね。
なぜ、「絶望」するのか。
過去の喪失や失敗、恥辱や挫折が、「絶望」を引き起こすのではない。
未来を信じられない、誰かを信頼できない、大切な人を愛せないとき、人は「絶望」します。
しかし、よくよく考えてみると。
それが正しいとするなら、そもそも信頼しようとしたり、愛そうとしたりしない人は、「絶望」しないわけですよね。
これは、自分が「絶望」の渦中にいるときには、よく見失いがちな視点です。
はい、私自身もそうでした笑
そもそも「絶望」するということは、それだけ自分の人生を信頼したい、誰かを愛したい、というマグマのような熱が、心のなかにあるから。
それなのにできないから、「絶望」する。
だから、「絶望」することは、しんどいことだけれども、悪いことでも何でもない。
抱いた「絶望」の大きさは、それだけその人の愛の大きさを示すものだから。
「絶望」の深さと暗さは、それを抱いているその人にしか、わかりません。
けれども、そうした「絶望」の見方をお伝えすること、そしてその「絶望」している人を信頼することは、周りの人にもできるのだと思うのです。
そんなことを、ここでお伝えし続けていきたいと、いつも思っております。
今日も、ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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