大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

その人は、実は自分の失われた部分を解放しにきてくれたのかもしれない。

何かが原因で、自分のある部分を抑圧してしまうと、身近な人にそれが現れます。

何がしかの問題を持ってくる人や、自分がイラっと感じる人は、その抑圧した部分を解放しにきてくれた人かもしれません。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

以前にもお話ししましたが、このカテゴリーの「やさしい心理学」は、「心理学を自分責めに使わないようにしたい」という意図を込めました。

子どもがいらっしゃる方は、ぜひそれを頭の片隅に読んでいただければ幸いです。

1.あなたが抑圧したことは、あなたの子供にあらわれる

子供のころに心に深い傷あとを残すような、つらい出来事を経験することがあります。

そのとき自分の「何か」が原因で、こんな不幸な結果になったのだと思いこみ、その部分を自分から切り捨てて、抑圧してしまいます。

一般的にいって、くりかえしぶつかる問題のかげには何かしらの抑圧がひそんでいます。

 

いったん抑圧してしまうと、そのことは忘れてしまい、自分が忘れたことさえ覚えていません。

ところがこうして抑圧されたことは、周囲の人々を通してあらわれてきます。

つまり、私たちは自分のなかの「失われた自己」を身近な人たちに投影するのです。

これはとくに自分の子供によくあらわれます。

 

たとえば、もしあなたが自分の性的な部分を抑圧していたとすると、自分の子供がひどく早熟に見えるかもしれません。

また、自分自身の不正直さを抑圧していれば、子供がいつも嘘をついているように見えます。

だからといって、子供と離婚するわけにはいきませんし、彼らのかかえている問題をいっしょに取り組み、子供を理解して受け入れたいと思うことは数知れずあるでしょう。

そこで子供たちが行動で見せてくれるものは、あなたの「失われた自己」を受け入れるチャンスなのです。

これが原因で不幸になったと信じてきた、自分のその失われた部分をふたたび統合することによって、隠れていた罪悪感が解放されます。

 

受け入れ、許すことを通じて、子供たちにあらわれた自分の一部を、成長と癒しのために統合することができます。

あなたが切りはなしてしまった自分の感情とふたたびつながり、自分自身とのつながりを回復していくにつれて、あなたの子供もまた解放されていくのです。

 

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.63

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2.失われた、私の大切な部分

自分が抑圧すると、身近な人にそれが出る

今日のテーマは、いつにもまして刺さる気がするのですが、気のせいでしょう汗

自分が抑圧してしまった部分は、身近な人にそれが現れます。

その抑圧してしまった原因は、引用文にある通り、幼少期の体験によることが多いようです。

その多くは親との関係のなかで生まれるのでしょうが、祖父母や親類、あるいは学校などの先生、友だちとの体験でも生まれます。

本来、人懐っこい性格なのに、除け者にされてしまったりする経験をすると、その人懐っこさを抑圧してしまいます。

こんなにつらい思いは、もうしたくない。

もう、傷つきたくない。

なぜ、こんな経験をしたのだろう。

わたしが、簡単に人との距離を縮めてしまったからだ。

わたしは、すぐに人と仲良くしようとしてしまうけれど、人とは一定の距離を置かないといけないんだ。

やがてその人は、なれなれしく近づいてくる人に、強い嫌悪感を持つようになるのが想像できるでしょうか。

「そんなことをしたら、嫌われるのに、なぜあなたはそんなことをするの?」

あるいは、のんびりとした自分の世界を持っている人が、いたとします。

その人が、集団生活の中で周りのペースに合わせることを強要されてきたら、どうでしょう。

毎日、何かに追われるように、周りに合わせようと必死に生きようとします。

ある日、我関せずとマイペースに生きる人が身近に現れ、無性に腹が立ちます。

いずれも、その相手を通じて、自分の失われた部分を見るからです。

しかも、それは子どもやパートナーや、身近な人に出るから、厄介なんですよね、ほんと笑

ある、首長竜の記憶

私の場合は、自分が欲しいものを欲しいと言う素直さ、でした。

それを教えてくれたのは、息子です。

以前にこちらの記事で書いたのですが、息子と恐竜博物館を訪れたことがありました。

特別展を観た後に、お決まりのお土産ショップで、ステゴサウルスのフィギュアを買わされました。

その後、公園をひとまわりして、そろそろ帰ろうかと思った時分に、息子が騒ぐのです。

「首長竜のフィギュアもほしい」、と。

一日にふたつもおもちゃを買うなんて、ダメだろう。

そう考えた私は、息子にダメだよ、と諭しました。

しかし、息子は烈火のごとく、ぐずりました。

いつになく激しく怒る息子に、私も意地になって「絶対に買わないぞ」と、徹底抗戦の構えをしました。

どれくらい、すったもんだしたでしょうか。

かなりの時間を、戦争していたように思います。

わめき、諭し、抱き上げ、怒り・・・そうしているうちに、不思議な感覚がおりてきました。

あぁ、こいつは、私自身なんだな・・・

それは、理解するというよりも、体感したといった表現の方が、正しいように感じます。

甘やかす?お金がかかる?我慢?しつけ?
そうやって、ずっと自分のやりたいことを、押さえつけてきたのかもしれない。
息子が笑顔になるなら、いいじゃないか。

ふっと、力が抜けました。

「ごめんな、おとうが悪かった。首長竜、買いに行こう?」

帰りのバスの中、前の座席に座っていた見知らぬ女の子が、ぐずっていました。

息子は、後ろの座席から首長竜の首を見せて、ステゴサウルスと寸劇をして、女の子をあやしていました。

女の子は、そのフィギュアを眺めて、いつしか笑顔になっていました。

その女の子のご両親が、息子にありがとう、と言っていました。

首長竜のフィギュアを見ると、その女の子の笑顔を思い出します。

3.失われても、取り戻せる

懐かしい、首長竜のお話です。

引用文と同じ、子どもについてのお話になりましたが、子どもでなくても、身近な人に置き換えることができます。

その人の問題と思っている部分、あるいは嫌いな部分。

自分が抑圧した分だけ、その部分は色濃い闇に見えます。

けれども、見方を変えれば、その人は自分のために、それを見せてくれているのかもしれません。

イラっとしたり、受け入れられないと感じたり、そんなことがあったとき。

その人は、実は自分の失われた部分を、解放しにきてくれたのかもしれません

もちろん、イヤはイヤですし、簡単には認めることは難しいものです。

それでも、そんな見方があると知るだけでも、少し違ってその人を見ることができるのかもしれません。

自分自身とのつながりを取り戻すたびに、自分の周りの大切な人もまた、解放されていく。

人の心って、本当にすごいものです。

傷ついても、癒すことができる

失われても、取り戻すことができる

そのことを、頭の片隅に入れておくだけで、いいのだと思います。

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