振り返ってみたときに、何を与えてきたかが残ります。
そしてそれは、周りの人に与えてきたものと同じように、自分自身に与えてきたものも含まれます。
大切な人に与えるのと同じように、自分にも与え続けることが大切なようです。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.何を与えるかによって、あなたの経験はつくられる
人生の意味や価値は、「あなたがどれだけ与えるか」によって決まります。
もしあなたがほんのわずかしか与えていなければ、そこから与えられるものはほとんどないはずです。
逆にもしあなたのすべてを与えていれば、その何倍もあなたに返ってくることでしょう。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.290
2.与えたものだけが、残る
今日のテーマは、「与える」でしょうか。
非常にシンプルながら、含蓄の深いテーマです。
与えたものだけが、残る
「与える」とは、相手の喜びや幸せ、楽しむことをしてあげることで、自分自身もそのことに喜びを感じられる状態のことをいいます。
それは見返りを求めず、愛する行為の一つです。
その反対は、「受けとる」ですね。
相手の愛、想い、ねぎらいといったものに感謝して、心からの喜びを感じることです。
この「受けとる」もまた、愛する行為の一つですね。
さて、この「与える」という行為は、人がもつ偉大な力の一つです。
人生の意味や価値は、「あなたがどれだけ与えるか」によって決まります。
引用文の冒頭も、味わい深いものがありますね。
意味や価値を考えなくても、人生を振り返ってみると、自分が「与える」ことをした記憶ほど、印象強く残っているものではないでしょうか。
身近な人に、何かをしてあげたこと。
大切な人に、喜んでもらいたくてしたこと。
そうしたことは、私たちの心に深く残るものです。
もちろんそれだけに、ポジティブな意味だけでなく、「もっとしてあげたかった」「全然足りなかった」という感情もまた、抱くこともあるかもしれません。
そう思うだけ、与えたかったという気持ちが強い証明なのでしょうけれど。
人が生きる道においては、与えたものだけが残る。
それは、一つの真実のような気がします。
与えた分だけ、受けとれる
与えたものだけが、残る。
与えよ、与えよ。
そう聞くと、どこか犠牲的な響きに聞こえてしまうかもしれません。
けれども、決してそれは、犠牲的な行為ではありません。
「与える」ことととは、それ自体が喜びのなかにあります。
そうでないのであれば、それは何かを期待していたり、犠牲していたり、取引になっていたり、何かを奪おうとしていたのかもしれません。
与えているとき、私たちは与えているものと同じだけのものを、受けとっています。
「与える」とは「受けとってもらう」。
「受けとる」とは「与えさせてあげる」。
結局のところ、それは同じものの裏表に過ぎないようです。
3.「与える」対象には、自分自身も含まれる
与えたものだけが、残る。
この視点で考えて見ると、「経験だけが残る」という言葉もまた、含蓄が深いものになります。
「経験だけが残る」。
人の心に残っていくのは、結局のところ、経験だ、と。
それは、見知らぬ土地を旅行で訪れる経験かもしれません。
大好きなアーティストのつくる、コンサートの空気に触れる経験かもしれません。
少し背伸びをしたディナーの経験かもしれません。
そうした「経験」だけが、残っていく。
それは、見方を変えると、自分自身に最大限にいいものを与えている、という見方ができます。
与えたものだけが残るのなら。
自分に与えたものもまた、残っていくのでしょう。
自分自身に、どれだけのものを与えるか。
「私なんかが」「これくらいで十分」「周りにバカにされそう」
そういった怖れの声を乗り越えて、どれだけのものを自分自身に与えられるか。
自分の人生を、そして周りの人をどれだけ豊かにできるかは、それにかかっているようです。
「与える」対象は、なにも自分の外側の人たちだけではない。
その対象には、自分自身も含まれる。
与えたがりの人ほど、時おり思い出したい真実です。
今日は「与える」について考えてみましたが、少し抽象的すぎたかもしれません笑
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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