大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

「犠牲」は偽りの愛だけれども、愛であることに変わりはない。

「犠牲」は、相手の喜びのためにするけれども、自分にとっては幸せではない行動をしてしまう心理です。

それは、偽りの愛だとされますが、それでも愛であることに変わりはないと思うのです。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.犠牲は「偽りの愛」である

「愛」はみずからを広げ、創造します。

一方、「犠牲」は傲慢にもみずからを落としめます。

 

「犠牲」とは、与えるのに受けとらないという役割です。

ですから本当に与えているのではありません。

そして「あなたはいいけど、私はよくない」と言っているのです。

そうやってあなたからの最大の贈り物である「あなた自身」を与えるふりをしながら、だれかをだましています。

なおかつ何も受けとっていませんから、自分に与えられた贈り物を信じることはできません。

それはあなたのなかの「女性性(あなたの中の受け取る方の面)」がいまだに救われていないからです。

そこには何かが入る余地がなく、自由もありません。

 

自分が犠牲者になるのは、無価値観や罪悪感、挫折感などの昔の感情をうめあわせようとしているのです。

そして、自分でも心の底では信じていないことを、いつも証明しようとします。

だれかのために自分を犠牲にするという行為は、自分よりも価値のある「自己」をその人から盗みとるために、自分自身のアイデンティティを捨ててしまうことです。

 

犠牲はもっともひんぱんに見られる「偽りの愛」です。

自分が変化して前進することを望まず、ひそかに引きこもっているからです。

それはまた、関係のなかでいちばん必要とされている、あなたが与え受けとることを差し控えているために、「偽りのコミットメント」にもなってしまいます。

 

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.294

f:id:kappou_oosaki:20220103095718j:plain

2.「犠牲」の傲慢さ

今日もテーマも、バリバリに「犠牲」ですね。

引用文でもうお腹いっぱい、という感じですが、がんばって書いてみたいと思います笑

「犠牲」が持つ、ある種の傲慢さ

「犠牲」とは、誰かの喜びや幸せのためにしているけれど、自分にとって幸せではない行動を取る心理を指します。

それは、「与えるけれども、受けとれない」という、「自立」の時代に象徴的な心理です。

その根底には、「自分には価値がない」という無価値観、あるいは「自分は罪深い」という罪悪感がひそんでいます。

そうした「犠牲」は、ある種の「傲慢さ」をはらんでいます。

「犠牲」は傲慢にもみずからを落としめます。

過剰なまでの謙遜は、相手にとって嫌味になることがありますが、それに近いのかもしれません。

プロのサッカー選手が、小学校のサッカー部にやって来て、「今日はいろいろ教えてください!」と言ったら、「は??」となりますよね(本当にすごい人は、誰からでも学べる、といった視点はさておき)。

権限を持っている上司が、何も決めずに「どうしたらいいですかね?」と聞いてきたら、「何言ってんだコイツ」となりますよね。

それと似たように、「犠牲」の心理は、自分の限りない価値を貶めるゆえに、ある意味で傲慢であるといえます

それは、とても厳しい見方のように聞こえるかもしれません。

もしそうだとしたら、あなたは自分自身の価値を、少し低く見積もりすぎているのかもしれません。

さしずめ、F1レーサーなのに、ペーパードライバーだと信じてしまっているように。

「犠牲」をすることで、自分を持たなくてもいい

多くの人にとって、最も恐ろしいのは、自分自身のほんとうの価値を受けとることです。

自分自身の才能、価値、魅力。

コアな部分であればあるほど、それを受けとることは怖いものです。

それゆえに、目を逸らしたり、なかったことにしたりします。

そして、「犠牲」に走るわけです。

なぜか。

「犠牲」をしている間は、自分自身の価値と向き合わなくて済むからです。

「あの人のために」、といって動いている間は、「あの人」の価値やアイデンティティを見ていればいいわけです。

この心理は、私自身、ずっと繰り返してきました。

自分の外側にしか、価値を見ないわけです。

その対象が移り変わることはあれど、自分自身の内面に目を向けたり、あるいは自分の価値と向き合わずに済む。

だって、自分の価値を見るのが、怖すぎるから。

そして、もし自分がほんとうにF1レーサーだったら、教習所を出てこなかった今までを、否定してしまうような気がするから。

はい、イヤですねぇ、ほんと笑

しかし、「犠牲」大好きな私にとって、この心理というのは、おそらくずっと向き合わなくてはならない「持病」のようにも感じます。

なくす、というよりは、うまく付き合っていく、というスタンスでしょうか。

3.「偽り」でも、「愛」には変わりない

問題から、どんな価値を見るか

持病のように、うまく付き合っていく。

「犠牲」だけでなく、ほかの問題でも同じですが、そう見ることができると、少し見方が緩みます。

「どうしても、問題を解決しないといけない」、あるいは「犠牲はやめないといけない」と考えると、心はとても苦しくなります。

もちろん、「犠牲」をやめることは、一つの大切な視点です。

しかし、それを義務や強制のようにとらえてしまうと、非常に息苦しくなります。

ほんとうのところ、問題は気づいたら終わり、なんですよね。

「自分が抱えてきた問題が、そこにある」と気づいたら、それで終わり。

「そうなんだよねぇ。でも、時には犠牲しちゃうのも、私なんだよね」

そう言えたら、とても軽さが出てくるように感じません?

問題は、それを問題ととらえるから問題になります

なんだか禅問答のようですが笑

そこから、どんな価値、魅力、あるいは才能を見るか。

それは、もう自由なわけです。

「偽り」でも、「愛」には変わりない

今日の引用文では、「犠牲は、偽りの愛である」といいます。

結構、手厳しいですよね笑

それもまた一つの真実だと思いますが、私はそれを読んで、「偽り」でもなんでも、「愛」なんだな、と感じるわけです。

「犠牲」しちゃうときも、あるでしょう。

それは、自分の価値を信じられないからかも、しれません。

けれども、たとえ「犠牲」だろうと、なんだろうと。

誰かの喜びや、幸せを願って、そう行動したことには、価値を見てもいいと思うのです

そして、その結果に、誰かが喜んだり、誰かが助かったり、誰かが笑顔になったりしたことも、あったでしょう。

そのことに、価値を見てもいいと思うのです。

もちろん、そこで自分が「受けとる」ことをできたら、相手ももっとハッピーだったかもしれませんけれども。

それは、これからの自分と相手の幸せに対する、「伸びしろ」でいいのでしょう。

自分のしてきたことを、「犠牲」だなんだと、問題として責めるのではなく。

ただただ、そこに価値を見ること。

それは、私がカウンセリングのなかで、提供したいことでもあるんです。

 

今日は「犠牲」について、お伝えしました。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

〇大嵜直人のカウンセリングの詳細はこちらからどうぞ。

※ただいま満席となっております。
※次回9月度の募集を8月30日(火)より開始いたします。

〇カウンセリングのご感想のまとめはこちら。