「犠牲」は、相手の喜びのためにするけれども、自分にとっては幸せではない行動をしてしまう心理です。
それは、偽りの愛だとされますが、それでも愛であることに変わりはないと思うのです。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.犠牲は「偽りの愛」である
「愛」はみずからを広げ、創造します。
一方、「犠牲」は傲慢にもみずからを落としめます。
「犠牲」とは、与えるのに受けとらないという役割です。
ですから本当に与えているのではありません。
そして「あなたはいいけど、私はよくない」と言っているのです。
そうやってあなたからの最大の贈り物である「あなた自身」を与えるふりをしながら、だれかをだましています。
なおかつ何も受けとっていませんから、自分に与えられた贈り物を信じることはできません。
それはあなたのなかの「女性性(あなたの中の受け取る方の面)」がいまだに救われていないからです。
そこには何かが入る余地がなく、自由もありません。
自分が犠牲者になるのは、無価値観や罪悪感、挫折感などの昔の感情をうめあわせようとしているのです。
そして、自分でも心の底では信じていないことを、いつも証明しようとします。
だれかのために自分を犠牲にするという行為は、自分よりも価値のある「自己」をその人から盗みとるために、自分自身のアイデンティティを捨ててしまうことです。
犠牲はもっともひんぱんに見られる「偽りの愛」です。
自分が変化して前進することを望まず、ひそかに引きこもっているからです。
それはまた、関係のなかでいちばん必要とされている、あなたが与え受けとることを差し控えているために、「偽りのコミットメント」にもなってしまいます。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.294
2.「犠牲」の傲慢さ
今日もテーマも、バリバリに「犠牲」ですね。
引用文でもうお腹いっぱい、という感じですが、がんばって書いてみたいと思います笑
「犠牲」が持つ、ある種の傲慢さ
「犠牲」とは、誰かの喜びや幸せのためにしているけれど、自分にとって幸せではない行動を取る心理を指します。
それは、「与えるけれども、受けとれない」という、「自立」の時代に象徴的な心理です。
その根底には、「自分には価値がない」という無価値観、あるいは「自分は罪深い」という罪悪感がひそんでいます。
そうした「犠牲」は、ある種の「傲慢さ」をはらんでいます。
「犠牲」は傲慢にもみずからを落としめます。
過剰なまでの謙遜は、相手にとって嫌味になることがありますが、それに近いのかもしれません。
プロのサッカー選手が、小学校のサッカー部にやって来て、「今日はいろいろ教えてください!」と言ったら、「は??」となりますよね(本当にすごい人は、誰からでも学べる、といった視点はさておき)。
権限を持っている上司が、何も決めずに「どうしたらいいですかね?」と聞いてきたら、「何言ってんだコイツ」となりますよね。
それと似たように、「犠牲」の心理は、自分の限りない価値を貶めるゆえに、ある意味で傲慢であるといえます。
それは、とても厳しい見方のように聞こえるかもしれません。
もしそうだとしたら、あなたは自分自身の価値を、少し低く見積もりすぎているのかもしれません。
さしずめ、F1レーサーなのに、ペーパードライバーだと信じてしまっているように。
「犠牲」をすることで、自分を持たなくてもいい
多くの人にとって、最も恐ろしいのは、自分自身のほんとうの価値を受けとることです。
自分自身の才能、価値、魅力。
コアな部分であればあるほど、それを受けとることは怖いものです。
それゆえに、目を逸らしたり、なかったことにしたりします。
そして、「犠牲」に走るわけです。
なぜか。
「犠牲」をしている間は、自分自身の価値と向き合わなくて済むからです。
「あの人のために」、といって動いている間は、「あの人」の価値やアイデンティティを見ていればいいわけです。
この心理は、私自身、ずっと繰り返してきました。
自分の外側にしか、価値を見ないわけです。
その対象が移り変わることはあれど、自分自身の内面に目を向けたり、あるいは自分の価値と向き合わずに済む。
だって、自分の価値を見るのが、怖すぎるから。
そして、もし自分がほんとうにF1レーサーだったら、教習所を出てこなかった今までを、否定してしまうような気がするから。
はい、イヤですねぇ、ほんと笑
しかし、「犠牲」大好きな私にとって、この心理というのは、おそらくずっと向き合わなくてはならない「持病」のようにも感じます。
なくす、というよりは、うまく付き合っていく、というスタンスでしょうか。
3.「偽り」でも、「愛」には変わりない
問題から、どんな価値を見るか
持病のように、うまく付き合っていく。
「犠牲」だけでなく、ほかの問題でも同じですが、そう見ることができると、少し見方が緩みます。
「どうしても、問題を解決しないといけない」、あるいは「犠牲はやめないといけない」と考えると、心はとても苦しくなります。
もちろん、「犠牲」をやめることは、一つの大切な視点です。
しかし、それを義務や強制のようにとらえてしまうと、非常に息苦しくなります。
ほんとうのところ、問題は気づいたら終わり、なんですよね。
「自分が抱えてきた問題が、そこにある」と気づいたら、それで終わり。
「そうなんだよねぇ。でも、時には犠牲しちゃうのも、私なんだよね」
そう言えたら、とても軽さが出てくるように感じません?
問題は、それを問題ととらえるから問題になります。
なんだか禅問答のようですが笑
そこから、どんな価値、魅力、あるいは才能を見るか。
それは、もう自由なわけです。
「偽り」でも、「愛」には変わりない
今日の引用文では、「犠牲は、偽りの愛である」といいます。
結構、手厳しいですよね笑
それもまた一つの真実だと思いますが、私はそれを読んで、「偽り」でもなんでも、「愛」なんだな、と感じるわけです。
「犠牲」しちゃうときも、あるでしょう。
それは、自分の価値を信じられないからかも、しれません。
けれども、たとえ「犠牲」だろうと、なんだろうと。
誰かの喜びや、幸せを願って、そう行動したことには、価値を見てもいいと思うのです。
そして、その結果に、誰かが喜んだり、誰かが助かったり、誰かが笑顔になったりしたことも、あったでしょう。
そのことに、価値を見てもいいと思うのです。
もちろん、そこで自分が「受けとる」ことをできたら、相手ももっとハッピーだったかもしれませんけれども。
それは、これからの自分と相手の幸せに対する、「伸びしろ」でいいのでしょう。
自分のしてきたことを、「犠牲」だなんだと、問題として責めるのではなく。
ただただ、そこに価値を見ること。
それは、私がカウンセリングのなかで、提供したいことでもあるんです。
今日は「犠牲」について、お伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
〇大嵜直人のカウンセリングの詳細はこちらからどうぞ。
※ただいま満席となっております。
※次回9月度の募集を8月30日(火)より開始いたします。
〇カウンセリングのご感想のまとめはこちら。