「ファンタジー」を抱いていると、本来の自分を隠してしまう「包み紙」のなかにいるようなものです。
その「包み紙」をほどいてくれるのは、やはり「与える」意識のようです。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.ファンタジーの世界に生きているかぎり、あなたの存在は「包み紙」のなか
ファンタジーの世界に生きてしまうと、あなたの願望のために周囲の人々みんなに「衣装を着せて」しまいます。
だれでも空想はしますが、そこにはまりこまないようにすることが大切です。
はまってしまうほど自分自身をあらわさなくなるからです。
あなたの「包み紙」を開き、自分自身を与えることによって、はじめて人生の贈り物を本当に受けとることができるのです。
空想の世界で遊ぶことはあっても、自分に満足を与えてくれるのは本当の自分自身なのだということを知っておく必要があります。
与えること、自分をさらけだすこと、自分の願望やほしいもの、欲求、よろこびと満足をすべて打ち明けることで、私たちは人生から与えられるのです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.296
2.ファンタジーとは、包み紙のよう
今日のテーマは、「ファンタジー」でしょうか。
以前にも触れたことのあるテーマですが、今日はまた違った切り口でお伝えしてみたいと思います。
「ファンタジー」と「ビジョン」
「ファンタジー」と聞くと、その語感にはポジティブなイメージがあるかもしれません。
しかし、心理学でいうところの「ファンタジー」は、少し様子がちがいます。
「ファンタジー」とは、ネガティブな動機から、いまの自分と切れている状態を夢想すること、といえるでしょうか。
ネガティブな動機というのは、自己否定であったり、いま現在の環境への不満であったり、そういったものの場合が多いようです。
なので、「ファンタジー」で描いたものに対しては、「どうせ手に入らない」という諦めだったり、空想や自己満足にとどまってしまうことが多いものです。
一方で、「ファンタジー」と対になる概念が、「ビジョン」です。
「ビジョン」とは、いま現在の自分自身と、その目指したものがつながっている状態を指します。
等身大の、いまの自分自身。
地に足を着けた、自分。
それをしっかりと持ったうえで、「これから」を描いているのが、「ビジョン」であるといえます。
「ビジョン」は、それを抱いていること自体に、喜びや満足感を覚えたりもします。
ただ、ほんとうに自分がやりたいことに対して、人は強烈な怖れを抱くものです。
心から惚れた人に、告白をするのは怖いですよね。
なので、自分の思い描いているものが「ファンタジー」と「ビジョン」は、一見して分かるかというと、なかなか難しいところがあるようには思います。
「ファンタジー」とは「包み紙」
今日の引用文では、こうした「ファンタジー」を「包み紙」と評しています。
誰でも夢想したり、空想したりすることはあります。
けれども、それをずっと続けていると、私たちは「包み紙」のなかにいるようなものだ、といいます。
先に書きましたが、「ファンタジー」の最も大きな問題は、「いま」の自分とつながっていないことです。
そのため、「ファンタジー」に描く自分の姿や、将来の姿は、本来の自分を隠してしまう、「包み紙」のようなものだ、と。
「包み紙」という表現が、秀逸だなぁ、と私は感じるのですが、いかがでしょうか。
なぜなら、どんなに綺麗な包装紙で包まれていようと、大切なのはその中身だからです。
(もちろん、包装紙も大切な商品の一部ではありますが)
「包み紙」というと、キャラメルやキャンディ、ガムが思い浮かびます。
子どものころ、10円のガムが好きでよく食べたものです。
ものぐさな私は、よくガムをそのまま飲み込んでいたのですが、「身体によくない」と聞いて、とても焦った記憶があります笑
それはさておき、どんなに色鮮やかな、キラキラした「包み紙」であっても。
本体は、あまーいキャラメルであり、キャンディなわけです。
どんなに素敵そうに見える未来であっても。
それが「ファンタジー」であるなら、それは「包み紙」と同じようです。
空想の世界で遊ぶことはあっても、自分に満足を与えてくれるのは本当の自分自身なのだということを知っておく必要があります。
引用文にあるように、キレイな「包み紙」もいいのですが、やはり甘いキャラメル本体こそが、私たちの心を満たしてくれるようです。
3.「与える」意識が「包み紙」をほどく
「与える」ことが、私たちをいまここに引き戻す
さて、こうした「包み紙」をほどいて、甘いキャラメル…ではなくて本来の自分自身を出していくには、どうしたらいいのでしょうか。
一つは、やはり「与える」という意識が、カギになります。
「与える」という意識、そしてそれにともなう行動は、私たちを「いま、ここ」に引き戻してくれます。
「あの人のために、何ができるだろう」
そう考えたときに、「そうだ、100億円あげよう!」とはならないわけです。
(いや、もしそれができるような石油王の方が読まれていたら、すいません笑)
そこには、いまの自分自身を地に足をつけて、等身大の自分と向き合う必要があります。
それが、「包み紙をほどく」ことの意味です。
その結果として、「いまの私にできるのは、あの人の幸せを祈ることだけだ」となるかもしれません。
それは、決して「ファンタジー」ではありません。
等身大の自分自身を受け入れ、その上でできること/できないことの線を引いているわけですから。
そして、「祈り」にしても、自分自身の持つ力を信じることは、「ビジョン」の一部であるともいえます。
「ファンタジー」ならば、「祈ってもしょうがない」と感じてしまうかもしれませんから。
自分の欲求を伝えることも「与える」ことの一つ
「与える」ことには、自分自身の願望や希望、欲求といったものを、相手に伝えることも含みます。
ここが、「与えること好き」な人たちは、苦手な部分です。
はい、私もです笑
大切な人から、その人の願いや希望、あるいは夢を打ち明けられたとしたら。
とても、うれしく感じるのではないでしょうか。
好きなアーティストが語る、叶えたい夢を聞いたら。
とても応援したくなるし、幸せのおすそ分けをもらったような気分になるのではないでしょうか。
そうなんですけど、自分ごとになると…というのが、与えたい人たちにとって、あるあるなお話ではあります。
与えること、自分をさらけだすこと、自分の願望やほしいもの、欲求、よろこびと満足をすべて打ち明けることで、私たちは人生から与えられるのです。
この引用文の最後の一文を、ゆっくりと味わいたいものです。
「人生から与えられる」
素敵な表現です。
今日は「ファンタジー」の心理について、お伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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