「許し」とは、ある相手やできごとを、主体的に100%受け入れることを指します。
それは相手のためではなく、自分自身のためにする行為です。
そうした「許し」の恩恵と、許せないときの考え方についてお伝えします。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.望みをかなえたいときには、許すこと
許しによって批判や罪悪感が解消します。
罪悪感がなくなれば前に進むことができ、それによってあなたの望みが達成されます。
「許す」ということは、相手にむかって与えるということです。
与えることは同時に、あなたにも与えられ、おのずと不足しているものも満たされていくのです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.301
2.「許し」について
今日のテーマは、「許し」でしょうか。
もう何度も扱っていますが、それだけ大事なテーマでもあります。
「許し」は自分のためにするもの
「許し」と聞くと、どこか犠牲的で、利他的な響きがあるかもしれません。
それゆえに、どこか聖人性が求められるような、そんなニュアンスがあります。
しかし、心理学における「許し」とは、そういった意味とは少し違います。
「許し」とは、相手のためにするのではなく、自分のためにする、とても能動的でポジティブな行為といえます。
具体的には、ある相手やできごとを、主体的に100%受け入れることを指します。
何らかのできごとや、特定の相手を許していないとき、私たちはその対象を責めています。
「あの人のせいで、こうなった」
「あれがなければ、こんなことにならなかったのに」
ままならない相手、自分が望まないできごと。
そうしたものに対して、私たちは責める気持ちを抱きます。
もちろん、それはある意味で人として自然な反応であり、自分を守るためのものかもしれません。
けれども、誰かを責めているとき、私たちの心には、同じだけの大きさのベクトルが向きます。
誰かに向けた刃は、同じだけの力で、私たちを傷つけます。
それは、「罪悪感」と呼ばれるものです。
誰かを責めるとき、私たちは同時に「罪悪感」で自分を責めることになります。
罪悪感がゆるむと、前に進むことができる
「罪悪感」にはさまざまな種類があります。
どれも共通しているのは、自分が罪深い人である/自分が汚れていると感じることによって、何がしかの罰を与えようとする心理がはたらくことです。
今日のテーマでいう「罪悪感」は、「加害者の心理」と呼ばれるものに近いと思います。
誰かを責めたり、憎んだりすることで、傷つけたように感じる。
だから、何らかの罰を、自分自身に与えようとするわけです。
そうすると、自分を幸せから遠ざけたり、わざわざしんどい方の選択をしてしまうようになります。
これが、「罪悪感」の怖ろしさです。
誰かを許していない状態だと、この「罪悪感」につきまとわれ、自分で自分を苛んでしまうわけです。
そうすると、なかなか自分の望む未来に向かって進んだり、ときにはくつろいだりすることが、難しくなります。
常に、自分を幸せにするのとは真逆の方向を、意識的に無意識的に、選んでしまいます。
「許し」とは、こうした「罪悪感」をゆるめてくれます。
先に書いた「許しとは、自分のためにするもの」というのは、そういった意味があります。
誰かを「許す」ことは、誰かを責めることで持っている「罪悪感」をゆるめてくれます。
それは、結果的に自分自身を許すことにつながります。
そうすると、私たちの生きる道は、川の流れのように自然に前へと流れていくのです。
こうしたことを踏まえた上で考えると、
「もし、あなたが幸せでないなら、誰かを許していない」
という格言も、含蓄深く感じられるのではないでしょうか。
3.だから私たちは祈るのか
100%でなくていいし、戻りながらでいい
もちろん、こうした「許し」に、100%というのはありません。
昨日は、すごく許せてたのかスッキリしていたのに、なんか今日はすごくムカつくし、相手のことを思い出して責めてしまう。
そんなことも、よくあることだと思います。
それで、いいんだと思います。
むしろ、それが自然だと思います。
100%でなくてい、いいんです。
戻りながら、揺れながらで、いんです。
そんな100%許すことができるのは、ほんとの聖人か、または今生に別れを告げるときくらいしか、できないのかもしれません笑
「許し」は大切だし、そうした方が楽になる。
けれども、「100%そうしなければいけない。365日24時間、許せていないといけない」と考えると、苦しくなります。
徐々に、でいいんです。
まずは、「ふーん、『許し』って考え方が、あるのかぁ」くらいで、いいんです。
私自身も、「許し」は一生向き合っていくテーマなんだろうな、と思っています。
許しのプロセスと、許せないときのために
さて、そうはいっても、とってもキライなあの人を「許す」というのも、難しいものです。
よくいわれる「許し」の手順とは、
- 感情の解放:その対象への感情を感じ尽くし、心に余裕をつくる
- 感情的理解:もし同じ立場だったら、自分もそうしたかもしれないという理解
- 感謝:そのできごとがあったからこそ、得られたものに感謝する
- 恩恵:許しによって得られるものを受けとる
というプロセスを踏みます。
引用文でいう「与える」とは、3番目の感謝の部分ですかね。
しかし、そうはいっても、なかなかこの通りには進まないこともあります。
そんなときは、それが悪いことでも何でもなく、「許そうとしたこと」にまずは価値がある、と思って、自分自身をいたわることです。
結果ではなく、歩み始めたプロセスを認めてあげる。
それは、私たちの心に、落ち着きと安心をもたらします。
しかし、そうしたことは頭では理解できても、なかなか心がついてこないことがあります。
「わかっちゃいるんだけど、でも許せない」
ええ、それで当たり前だと思います。
だって、にんげんだもの笑
そんなふうに、どうしても許せないときは、もう祈りましょう。
「どうか、『あの人/あのできごとを許せる私』になりますよう」
私は、そうしていました。
ここまで書いてきてアレなんですが、「許し」とは、自分の意志でできるものでもない気もするのです。
だって、自分で決めてできるのであれば、みんなそうしているでしょうから。
けれども、なかなかそれができない。
その境界線というのは、自分の意志だけで、渡れるものでもないと思うのです。
だって、自分を傷つけた相手や、理不尽で不条理なできごとを「許す」なんて、ふつうに考えたらできないじゃないですか。
どこかで、頭のネジを何本か外さないと、できないと思うのですよね。
「許し」のこちら側と、あちら側。
その彼岸を渡るのは、どこか大いなるものの力を借りないと、できないように感じるのです。
それは、自分の人生という川の流れに身を委ねる、という意味と、近いのかもしれません。
すいません、最後は少し脱線してしまった気がします笑
今日は「許し」について、お伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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