誰かや何かを「批判」するたびに、「役割」と「犠牲」という副作用がついてきます。
その根底にあるのは、何がいい/悪いという「判断」です。
そうした「判断」の心理と、それをゆるめるためのヒントについてお伝えします。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.批判するたび、犠牲にはまる
心のなかで善悪を決めつけ、批判するとき、私たちは最悪の気分に落ちこみ、自分には価値がないと感じます。
そこで、その気持ちをうめあわせるために「役割」を演じ、自分はそうではないことを証明しようとします。
でもその役割は、自分は悪くない、無価値ではないことを証明するためだけのものなので、そこからあなたが何かを受けとることを許しません。
そこで、あなたは自分を犠牲にするという道にはまりこんでいくのです。
ひとつ批判を手放すたびに、そして、ひとり許すたびに、無駄な時間が短縮されます。
そしてまた、役割と犠牲という、不幸で報われることのない仕事から解放されるのです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.304
2.批判、役割、犠牲の関係
今日のテーマは、「批判が生む役割と犠牲」でしょうか。
役割、犠牲は、何度も出てきているテーマですが、今日も少し違った視点からお伝えしてみたいと思います。
誰かを批判することの副作用
「批判」には、いろいろな意味があります。
少し、辞書を引いてみますね。
1 物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を―する」「―力を養う」
2 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。「周囲の―を受ける」「政府を―する」
3 哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。
今日ここで扱う「批判」は、2番目の意味です。
誰かや何かの欠点や誤りを指摘し、正すべきである、と論じること、ですね。
「批判」することがすべて悪い、ということではないので、含みおきくださいね。
さて、その上でですが。
誰かを批判するとき、私たちは心にモヤがかかったように感じます。
それは、身近な人の欠点や短所に対する、批判かもしれません。
あるいは、ニュースの中で見る事件やスキャンダルに対しての、批判かもしれません。
「あれは間違っている」
「この人がしていることは、おかしい」
そういった批判をすると、いっときはスッキリするかもしれません。
しかし、心のなかに、どんよりとした何かを抱えます。
誰かを責めることへの「罪悪感」ともいえるのですが、相手を批判した分だけ、自分は「正しくないといけない」という意識がはたらきます。
「あれは間違っている(私の考えは正しい)」
「この人がしていることは、おかしい(私はおかしくないし、正しくないといけない)」
というように。
そうすると、それを証明するために、私たちは「役割」を演じなくてはならなくなります。
批判した相手が「まちがっている」「悪い」「おかしい」分だけ、自分自身が「正しい」「いい人」「まちがっていない人」にならないと、バランスが取れなくなるわけです。
それは、「役割」として私たちをしばりつけます。
その「役割」を演じるために、私たちは「犠牲」的な行動を取るようになります。
すなわち、自分が心地よい、幸せではない選択をしてしまうわけです。
ずっと、「いい人」「正しい人」「まちがっていない人」でいないといけないのは、強烈なプレッシャーになるのは、容易に想像がつくと思います。
しかもそれは、外に出ているときだけとか、カメラが回っているときだけ、ではありません。
自分自身が監視するわけですから、24時間365日、「いい人・正しい人」でいないといけないわけです。
はい、考えるだけでもしんどいですよね。
これが、誰かを批判することの怖ろしさであり、リスクといえます。
根っこにある「判断」と、過去の傷
さて、そうした「批判」ですが、そのとっかかりとなっているのは、「判断」です。
「これはいい」「あれは悪い」、という「判断」。
そうした「判断」が、ものごとや相手を善と悪に切り分けます。
えぇ、それはもう、チョキチョキチョキ、と。
「借金とは、いけないことだ」
「迷惑かけたのに謝らないなんて、おかしい」
「離婚するのは、まちがっている」
いろんないろんな「判断」を、私たちは生きていく中でします。
その「判断」をもとに、時に「批判」をして、めぐりめぐって自分自身を苦しめるわけです。
ここまでは、なんとなく分かりやすいかと思いますが、もう少し突っ込んで考えてみます。
そうした「判断」は、どこからきているのでしょうか。
何をもって「良い」、何をもって「悪い」と判断するのか。
私たちはそれを、過去の経験からしていることが多いようです。
誰かから聞いた、教えられた、という経験もあるでしょう。
しかし、それ以上に強烈な「判断」になるのは、過去の痛みや傷です。
私たちが経験した、何がしかの過去の痛み。
それが、私たちの「判断」の材料になっている場合があります。
例えば、お父さんがハードワーカーで、平日も休日も仕事であまり家におらず、遊んでもらえなかった子がいたとします。
とても寂しさや満たされない痛みは、「子どもと遊ばない父親は悪だ」という「判断」を持つかもしれません。
例えば、お母さんがいつも不機嫌で、ヒステリックだったとします。
大切なお母さんの、笑顔を見ることができない痛み。
その痛みは、「人前では必ず機嫌よく笑顔でいないといけない」という「判断」を生むかもしれません。
もちろん、そうした「判断」自体がいい/悪いというわけではありません。
ただ、その「判断」をずっと手放せないのは、非常に私たちの心を苦しめます。
だって、「判断」をする以上は、「いい人」でいないといけませんし、そのためには「役割」を演じて「犠牲」をしないといけないわけですから。
時には、羽目を外すお父さんであっていいですし、落ち込んだり不機嫌なお母さんでいてもいいわけですから。
3.「判断」を手放すための「許し」
自分自身のための「許し」
さて、こうした「批判」、あるいは「判断」を手放すことが、肩の力を抜いて生きるために大切です。
手放す、ゆるめる。
そうするためには、やはり「許し」ということになるのでしょう。
はい、心理学で最も大切な概念の一つといわれる、「許し」です。
またそれか…と思われた方もいらっしゃるかもしれません。
はい、そうです。
また、「許し」です笑
まあ、「愛」と「許し」と言っておけば、たいていのことは格好がつくと気づいている私です。
冗談のように聞こえるかもしれませんが、割と本気です笑
「許し」とは、相手やできごとを主体的に、100%受け入れることをさします。
それは、相手を責めることによる罪悪感から、自分自身を解放してくれます。
さて、「誰を」許すのでしょうか。
「批判している(したくなる)相手」ではありません。
そうですよね、だってワイドショーに出てくる、スキャンダルを起こした芸能人を「許す」とか、意味わかりませんもんね。
はい、ご想像の通りです。
「批判」の根っこにある「判断」。
その「判断」を持つことになった、そのできごとや相手が、「許し」の対象です。
先ほどの例でいえば、「いつも家を空けていた父親」だったり、「ずっと不機嫌だった母親」なわけです。
はい、イヤですよねぇ…ほんと…
けれども、ここで何度もお伝えしている通り、「許し」とは、その対象や相手のためにする、犠牲的な行為ではありません。
「許し」とは、自分自身が自由に生きるために、するものです。
なぜ、そうせざるを得なかったのか?
そうはいっても、いきなり「さあ、許しましょう」といっても、難しいものです。
まずは、その古い痛みと向き合う、その感情を感じつくすことから、「許し」のプロセスははじまります。
はい、イヤですよねぇ…ほんと…(二回目)
それは、とても勇気がいることですので、時にカウンセリングを利用するなり、一人でやろうとしなくても大丈夫です。
そうして感情を解放していくと、心に余裕が生まれます。
そうすることで、「判断」を外して、そのできごとや、その人の立場や感情を考えてみることができるようになります。
「感情的理解」と呼んだりもしますが、「その人と同じ立場だったら、自分を同じことをしたかもしれない」という情感をともなうことが多いです。
お父さんも、休日出勤するよりも、子どもと遊びたかったのかもしれない。けれど、経済的に支えるために、日曜日の朝も仕事に行っていたのかもしれない。
お母さんも、あのときの家の状況からしたら、余裕がなかったのかもしれない。生活することで精いっぱいで、笑顔でいられる余裕なんて、なかったのかもしれない。
もちろん、頭ではそう分かっていたかもしれません。
けれども、肚の底からそう思うことができると、世界がずいぶんと違って見えます。
きれいごとに、聞こえますでしょうか。
私は、そうは思わないんですよね。
だから、こうして長々と「許し」について書くことができるのかもしれません笑
どれだけ葛藤があっても、すべての道は「許し」に通じている。
ここの言葉で、カウンセリングで。
これからも、そうお伝えしてきたいと思っています。
今日は、「批判」から「許し」まで、盛りだくさんにしすぎてしまいました。
まあ、いつものことですが笑
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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