過去の傷や痛みが、「判断」の心理を生み、それは分離間や孤独感によって自分を傷つけます。
しかし、相手の価値や魅力にフォーカスし続けることは、自分自身を癒してくれるようです。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.人に対する判断は、つねに肉体や人格やミスに関する者
その人の本質や才能、美点やあなたが感謝していることなどを見ていくと、判断は消えていきます。
その部分を見ていってつながれば、自分自身を解放することにもなります。
判断はつねに両刃の剣です。
他人を攻撃するために使いながら、結局は自分自身をも傷つけているのです。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.311
2.「判断」するたびに、自分を傷つける
「判断(ジャッジメント)」の心理
「判断(ジャッジメント)」とは、その語義通り、何からの基準によって線を引く、という心理を指します。
線を引くわけですから、ここからが白組、ここからが赤組、とチーム分けをするわけですね。
国境にせよ、不動産にせよ、人はいろんな線を引いて、ものごとを分けてきました。
あるいは言葉、というものも、ある意味で世界を切り分けるものの一つなのかもしれません。
「分ける」ということは、分離を生みます。
こちらと、あちら。敵と、味方。
「分ける」という行為が、そうした分離を生みます。
さて、心理的な意味での「判断」の基準となるのは、「いい/悪い」、「正しい/まちがっている」という線引きが代表的なものです。
言ってみればそれは、「私は正しい」、「私はいい人なの!」と主張したい心理から、そうした「判断」をしていると見ることもできます。
その裏には、「いい人でないといけない」、「間違えてはいけない」という怖れが、あるのかもしれません。
「判断」とは、自分の中にある怖れから、目に映るものを切り分けてしまう心理、といえます。
過去の傷や痛みが、怖れをつくる
さて、もう少しその心理について、考えてみます。
「間違ってはいけない」と思えば思うほど、「自分は正しい」と思いたくなります。
そして自分が正しければ正しいほど、間違っている相手が必要になります。
「悪い人にならないように」と思えば思うほど、「自分はいい人」である必要があります。
そして自分がいい人であればあるほど、悪い人が必要になります。
それは、真冬の寒さがあるからこそ、コタツから抜け出せないようなもので、バランスの法則とでも言えるかもしれません。
そうした「判断」をうむ、怖れ。
「間違ってはいけない」、「悪い人ではいけない」という怖れは、どこからやってくるのでしょう。
そうした怖れは、過去の痛みや傷がつくります。
何かの間違いを指摘され、ひどく傷ついた。
あるいは、あなたの性格はとても悪いから直した方がいい、と言われ続けた。
身近な人、あるいは大切な人との間に、そんな経験があると、私たちはひどく傷つきます。
そして、「もうこんなことはこりごりだ。だから、正しくならないといけない。間違ってはいけない。悪い人いてはいけない」ということを、心に誓うわけです。
そうしたプロセスによって、「判断」は生まれます。
しかし、「判断」の最大の問題は、それをするたびに自分自身を傷つけてしまう、ということです。
「判断」とは線を引くわけですから、孤立や孤独と表裏一体です。
「判断」をするたび、私たちは分離感や孤独感、誰にもわかってもらえないといった苦しみを抱きます。
さらに、「あの人は間違っている」「あいつは悪い人だ」と非難したり責めたりするたびに、罪悪感をも抱えることになります。
殴った拳が痛むように、相手を責めた分だけ、罪悪感に苛まれるわけです。
こうしたことが「判断」の怖ろしさであり、それが生む問題でもあります。
3.自分自身をも癒す、美点凝視
そうした「判断」をゆるめるためには、やはり相手の「間違っているところ」、「悪いところ」、「足りないところ」といった点ではなく、その反対に目を向けることが有効です。
よく言われる、「美点凝視」ですね。
相手のいいところ、素晴らしいところ、価値、才能、魅力…そうした部分を見つめ続ける、探し続ける、ということです。
なんだ、よく聞く話じゃんか、と思われたでしょうか。
はい、そうなんです笑
これは最近つとに思うことなのですが、当たり前のことを、何度も何度もここでお伝えしようと思っています。
「誰も聞いたことがないような、心理の秘密」ではなく、です。
大切な真実は、いつも目の前にあります。
かの道元は、「遍界不曾蔵(へんかいかつてかくさず)」という言葉を残してくださいました。
「遍界」とは、すべての世界、世の中のこと、「不曾蔵」とは、隠していない、ありのままにそこにある、という意味です。
真実は隠されず、いつもそこにある。
それが見えないのは、自分自身のまなざしが曇っているからかもしれない。
そんなことを、教えてくれる言葉です。
それはさておき。
「美点凝視」、相手の才能、魅力、価値、長所、素晴らしいところを、見続ける、ということ。
それは言ってみれば、「判断」とまったく逆の心の動きともいえます。
めちゃくちゃ、抵抗が出るかもしれません。
そんなものはないよ、と思われるかもしれません。
けれども、それを見続ける、探し続けるということは、実は私たち自身の心を、深く癒してくれるものです。
パートナーシップの修復で、こうした「美点凝視」を使った方法が用いられることが多いのは、そうした意味からもあるのでしょう。
カウンセリングのなかで、カウンセラーがすることもまた、同じです。
お伺いするお話の中から、表情から、声のトーンから、クライアントさまの価値、才能、魅力を、いかにたくさん見つけることができるか。
それが、カウンセラーとしての一つの技量といえるかもしれません。
私自身も、それを磨き続けていきたいと思っています。
今日は、「判断」の心理と、美点凝視という視点について、お伝えしました。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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