大嵜直人のブログ

文筆家・心理カウンセラー。死別や失恋、挫折といった喪失感から、つながりと安心感を取り戻すお手伝いをしております。

「怒り」とは傷に触れた合図であり、怒っている相手には「この人は誰を愛したかったのだろう」という視点を持つことができる。

「怒り」とは、触れられたくない傷に触れたという合図です。

それゆえ、相手が怒っているとしたら、「この人は、誰を愛したかったのだろう」と見ることは、相手のみならず、自分自身にも大きな恩恵を与えてくれます。

名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。

1.相手の怒りには、あなたの学ぶべきレッスンがある

相手の怒りには、あなたにも何かしらの責任があるのです。

ですから「それはあの人の問題だ」と考えず、相手の怒りに耳を傾けましょう。

かといって相手の怒りをまともにかぶり、この世の終わりであるかのように悲観しないでください。

そこにはあなたが学ぶべきレッスンがある、というただそれだけのことです。

 

つねに「気づき」があれば、どんな機会にも、たとえそれがネガティブに見えることでも、前に進むための道具にすることができます。

その怒りによって、あなたのなかで眠っていたものを目覚めさせ、進歩の助けにしましょう。

 

「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.313

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2.「怒り」を遠ざける心理

今日のテーマは、「怒り」でしょうか。

私は苦手ですねぇ…自分も、周りの人が怒っているのも…

それだけ、私自身が「怒り」に対して、何かしら抑圧しているものがあるのでしょうけれど、でも苦手なんですよね笑

「怒り」を遠ざけたくなる要因として、二つ考えらると思います。

他人の感情に敏感だったり、共感力が高い場合

一つは、他人の感情に非常に敏感であったり、共感力が高い(高すぎる)人である場合。

「敏感すぎる人」ともいえますが、共感力が高すぎるゆえに、身近な人の感情と、自分の感情の間に、線を引くことが難しい場合があります。

そうすると、たとえ自分が関係なかったとしても、周りの人と「怒り」が、自分に向けられたものだと感じてしまったり、まるで自分自身が怒っているように感じられてしまうものです。

それゆえ、「怒り」を苦手に感じるわけです。

共感力が高い、というのはもちろん長所になりますが、その使い方によっては、悩みの種になってしまうのは、才能と似たような面があるようです。

昔、耳が非常にいい友人がいて、楽器をやっていたのですが、微細な音の違いを聞き分けたりできる反面、夜寝るときや集中したいときに、物音が非常に気になってしまう、と言っていたのを思い出します。

まずは、自分が敏感であったり、耳がよいということを、自覚することが大切なのでしょう。

自分の「怒り」を否定したり、嫌っている場合

そしてもう一つは、自分自身の「怒り」の感情を嫌っている場合。

この場合、「怒ってはいけない」というように、自分自身の「怒り」を否定したり、抑圧してしまうことが多いです。

はい、とても思い当たる節があるあるな私です笑

「怒り」というのは、誰にとっても、あまりいい感情ではないのでしょう。

けれど、どんな人でも、怒らない人はいません。

どんなに温厚に見える人でも、「怒り」の感情を感じない、という人はいないのでしょう。

「怒り」というのは、ある種のエネルギーでもあります。

怒りっぽい人、短気な人というのは、見方を変えれば、エネルギッシュな人であるように。

「怒り」というのは、私たちの大切な感情の一部です。

けれども、何らかの理由で、その「怒り」を嫌っていると、「怒ってはいけない」と「怒り」をどんどん抑圧していきます。

しかし、そうして抑圧した「怒り」は、なくなるわけではありません。

自分の内側にある「怒り」を見ないようにしていると、今度は自分の外側にそれが出てきます。

「投影」の法則と見てもいいのですが、自分の内側にあるものを、その外に映し出すわけです。

そうすると、「怒り」がイヤなんだけど、なぜか怒っている人が目についたり、周りの人がよく怒っているのを見かけたりします。

逆に見れば、「妙に最近、自分の身の回りで怒っている人を見かけるなぁ、イヤだなぁ」というときは、もしかしたら自分の怒りを抑えすぎているときなのかもしれません。

3.「相手の怒り」から学ぶものとは

相手の「怒り」に耳を傾ける

さて、そうした上で、今日のテーマでは、「相手の怒りに耳を傾けよう」といいます。

もちろん、その「怒り」を、相手のものである、と線を引くことが大前提です。

相手の怒りをまともにかぶり、この世の終わりであるかのように悲観しないでください。

引用文にある通りですよね。

学びの前に、まずは自分の心身を守ること。

必要以上に、相手の「怒り」を受け止めすぎないこと、自分のせいだと思い込まないこと。

どんな感情も、それを感じている人にしか感じることはできません。

共感することはできても、他人の腹痛を代わってあげることができないように。

そこに、線を引くこと。

それが、大前提です。

その上で、相手の「怒り」に、耳を傾けることができれば、とても素晴らしいことだと思います。

相手が、何に対して怒っているのか。

その「怒り」に耳を傾けることは、相手の癒しためであるとともに、自分自身の学びにもなります。

それは、関係性の近い相手であればあるほど、深い癒しと学びをもたらしてくれます。

「怒り」とは傷に触れた合図

相手の「怒り」から、何を学ぶのか。

それは、百人百様の学びがあるのだと思います。

けれども、どんな「怒り」であれ、共通していることがあります。

それは、「怒り」とは、傷に触れた合図である、ということです。

かさぶたもできていない、ジュクジュクした傷に、いきなり粗塩のついた手で触られるシーンを想像してみてください。

「何すんだよ!」とめっちゃ大きな声で、怒ると思いません?

身体的な傷もそうですが、心の傷もまた、同じです。

触れられたくない、思い出したくない傷に、触れられたとき。

人は、ほとんど反射的に「怒り」を感じます。

そうだとするなら、相手の「怒り」に耳を傾けるとは、相手の傷に目を向けるということに他なりません。

その傷とは、何らかの悲しみ、寂しさといった、辛い感情が生むわけです。

そして、もっと言うならば、そうした悲しみ、寂しさといった感情とは、誰かに愛されなかったときに、強く感じるものです。

それは裏を返せば、自分が愛せなかったことへの痛みでもあります。

そう考えていくと、相手の「怒り」に耳を傾けるとは、「この人は、誰を愛したかったのだろう」という想像を働かせることとも言えます。

その愛したかった、それなのに愛せなかった、そう感じている分だけ、「怒り」もまた、大きくなるでしょうから。

「怒り」について深く見ていくと、こんな視点を持つことができそうです。

 

今日は、「他人の怒りから学ぶ」というテーマについて、お伝えしました。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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