まったく違うようでいて、実は近いところにある「罪悪感」と「無価値感」の心理。
その心理を見ていきながら、それらを癒すための視点と問いかけをご紹介します。
名著「傷つくならば、それは「愛」ではない」(チャック・スペザーノ博士:著、大空夢湧子:訳、VOICE:出版)の一節から。
1.あなたの人生に不足なものがあるのなら、それは罪悪感が邪魔をしている
罪悪感はすべてをだいなしにしてしまいます。
私たちが何かを受けとることを罪悪感が邪魔するのです。
それは、自分には受けとる価値がないと感じているからです。
私たちは人生で何かが手に入らないとき、当然のように他人(とくにパートナー)を責める傾向があります。
人がこれさえしてくれればうまくいくのに、それをしてくれないと私たちは信じこむのです。
しかし、より深く見てみると、あなたが受けとることを妨害しているのは自分の罪悪感だということがわかるはずです
罪悪感を感じるときには、自分には何の価値もないと感じ、人生のあらゆるものを手にする資格はないと感じるのです。
ところがこの罪悪感は誤りなのです。
少し想像してみてください。
あなたの子供がちょっとした小さなミスをしたとしましょう。
するとそのためにその子は、それから一生、あなたや人々からの愛や贈り物をすべて受けとらないと思ってみてください。
あなたはその子の罪悪感をどう感じるでしょうか。
あなたが手を貸して、その子が自分は無実なのだとわかるようにしてあげたいと思いませんか。
私たちの罪悪感もほとんどこれと同じなのです。
子供時代のミスによってできたパターンが原因なのです。
あなたが自分には罪がないということを理解すれば、今度は愛する人がそれに気づくのを助けることができます。
「傷つくならば、それは「愛」ではない」 p.319
2.「罪悪感」の心理と、「無価値感」との近似
今日のテーマは、「罪悪感」です。
何度も何度も出てくるこのテーマですが、それだけ深く、私たちの生にかかわる心理なのでしょう。
自分は幸せになってはいけない気がする
「罪悪感」とは、すべての問題のベースにあると言われます。
日本料理でいえば、「ダシ」のようなものでしょうか…そんないいものでもないのですが笑
それは具体的には、自分に罪があり、罰を受けないといけないと感じる感情のことを指します。
それゆえに、罪悪感を持っていると、こんな行動に表れたりします。
- 自分を傷つけるような行動を取る
- 自分を幸せから遠ざけようとする
- 他人から自分を愛させない
- 自分が豊かになったり、成功したりするのを避けようとする
はい、書いていて思い当たる節がありありの私です笑
こうしたものは、意識できるレベルのこともありますが、もう無意識的にそういった行動、言動を取ってしまう場合もあります。
それくらい「罪悪感」とは、根深く、また原初的な感情であるようです。
自分は幸せになってはいけない気がする、
自分はけがれているように感じる、
なぜか大切な存在ほど距離を開けたい、
助けを求めることが苦手だ、
何か問題が起こったり、誰かが起こっていると自分のせいのように感じる…
いろんな場面で、「罪悪感」は顔を出します。
それはまさに問題のデパートともいえるようです。
罪悪感と無力感
さて、そうした「罪悪感」は、「自立」の時代に象徴的なマインドといわれます。
私たちの心の成長プロセスである、「依存ー自立ー相互依存」という段階の、「自立」の部分ですね。
何でも自分でやろうとする、誰にも頼らずに生きていこうとするステージです。
この「自立」の時代に象徴的なマインドが、「罪悪感」です。
それゆえに、「自立」時代に起こる問題の多くは、「罪悪感」が原因であると見ることができます。
では、「依存」のステージに象徴的なマインドとは、何でしょうか。
「依存」とは、自立に至る前のはじまりのステージであり、「私には何もできないから、誰かに何とかしてほしい」という状態です。
その「依存」の時代に、象徴的なマインド。
それは、「無価値感」といえます。
自分には、価値が無いと感じる感情。
自分には何もできないから、誰かに何とかしてほしい。
自分には何の価値もないから、誰か私に与えてほしい。
そうした「無価値感」が、「依存」の時代を象徴するマインドです。
自立時代の「罪悪感」と、依存時代の「無価値感」。
この二つは、一見すると全く違う心理のように見えるかもしれませんが、非常に近しい心理であるといえます。
それは、私たちの心理に巣食うエゴの、双子の姿であるともいえますし、またはある事象を表から見るか、裏から見るかの違いだけともいえます。
実際に、カウンセリングのなかで出てくる問題を、「罪悪感」から見ることができるとするなら、その裏側の「無価値感」から見ることもできます。
いずれにせよ、私たちの心の中には、自分を罰したり傷つけたりしようとする心理と、自分を矮小化して、ちっぽけな存在として扱いたがる心理の両方がいます。
「罪悪感」と「無価値感」。
それは、非常に私たちの心の深い部分に抱える心理であり、それだけに、一朝一夕でそれを無くしたり、癒したりするのは、難しいものです。
「持病」のように、じっくりと向き合っていくくらいの心持ちで、ちょうどいいのでしょう。
3.「罪悪感」のルーツ
さて、「罪悪感(無価値感)」を癒していくときに、考えてみたい視点があります。
「そうした『罪悪感』は、どこから来たのだろう?どうして、そう思うようになったのだろう?」
もちろん、「罪悪感」自体も、それを持っていることすら、自覚しづらい面がありますから、そう問うてみても、すぐには「???」となるかもしれません。
けれど、それは問いつづけてみる価値のある問いです。
繰り返しになりますが、「罪悪感」とは、自分には罪があり、自分はけがれていると感じる感情のことです。
あるいは「無価値感」とは、自分には全く価値がない、と感じる感情のことです。
けれども、それは真実ではありません。
真実とはもちろん、あなたは無罪であり、すべての罪は許されていて、そして何も償う必要ありません。
同じように、あなたには無限の価値があり、何かをしなくても、何かができなくても、誰かと比較しなくても、あなたがいることで世界は微笑みます。
けれども、「罪悪感」や「無価値感」が強い人は、そう言われたところで、なかなか容易にはそれを信じることができないのではないでしょうか。
えぇ、私もそうです笑
そんなときは、上に挙げた問いで、視線を変えてみることをおすすめしたりします。
「罪悪感」とは、自分とは罪深いと感じる感情です。
そうならば。
あなたは、どんなまちがいを、罪をおかしたのでしょうか。
それは、誰に対しての罪だったのでしょうか。
それは、本当にまちがいや罪だったのでしょうか。
「無価値感」とは、自分には価値が無いと感じる感情です。
そうならば。
あなたは、なにができなかったのでしょうか。
なにができなかったことで、そんなにも傷ついたのでしょうか。
なんのために、あるいは誰のために、それをしたかったのでしょうか、
私たちがそう感じるのは、多くの場合、愛する人を笑顔にできなかったこと、です。
もちろん、すべてがすべて、そうであるとは言えませんが。
けれども、大切な人、愛する人を笑顔にできなかった、傷つけてしまったと感じたとき、私たちは「罪悪感」と「無価値感」の罠にはまります。
それは、愛するパートナーかもしれません。
あるいは、家族の誰かかもしれません。
もしかしたら、父親や母親であるかもしれません。
けれど、それはほんとうに真実でしょうか。
引用文にあるような、子どものたとえ。
小さな子どもが起こした、ちょっとした小さな小さなミス。
それを、まるで世界を破滅に導くスイッチを押したかのような、そんなふうに感じてしまっているのかもしれません。
もちろん、そう感じるということは、それだけ「その人を愛したかった」という、愛の大きさのあらわれでもあるのですが。
先に種明かしをするようで恐縮ですが、先に書いたような問いは、そうした愛とつながることができる問いかけです。
「罪悪感」も「無価値感」も、それを感じるのは、大切な人を想う愛ゆえに。
その愛とつながっているとき、私たちは「罪悪感」や「無価値感」の罠から抜け出すことができます。
あなたが、罪深いと思っているくらい、愛したかった人は、誰でしょうか。
あなたが、自分には価値がないと思いたいくらい、愛したかった人は、誰でしょうか。
すぐに出てこなくても、だいじょうぶです。
ぜひ、少し考えてみたい問いかけです。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
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